2005年8月21日日曜日

旅日記-四国一周に行きたい1<東京徳島フェリー>


2005年8月22日

登場する地:東京フェリーターミナル(東京都)

旅ことば:有卦に入る(うけにいる)・・・幸運に恵まれて活気付くことのたとえ。


りんかい線の国際展示場という駅には、この後の人生であと何回行くことだろうか。さらに東京フェリーターミナルとなるといささか心許ない。2005年8月21日。僕は東京フェリーターミナルの待合室で徳島経由小倉行きフェリーの出航を待っていた。ターミナルまでは国際展示場からの送迎バスで来たが、そのバスというのがワゴン車をちょっと改良したようなもので、とても送迎"バス"とは言えない気もした。運賃箱は運転席の座席の背もたれに取り付けられた紙製の箱だった。僕はその箱の存在にすら最初気づかず、運転手のお姉さん(40代くらい?)に運賃200円を支払った。

今から行こうとするのは四国であり、北国育ちの僕にとっては全くの未知の土地である。なぜ四国に行こうと思い立ったかというと、学生時の地図による。高校時代に社会科で地理を選択していたが、四国の室戸岬が海岸段丘の好例として教科書や地図に出ていて、なぜか印象に残っていた。よって今回の旅の目的は室戸岬への歴訪を主軸に置いた。そしてせっかく行くのだからお遍路の真似事よろしく四国一周をしてやろうと思ったのである。もちろん歩いでではなくローカル線やバスを利用して。

さらに今回の試みとして、行きは船にしようと思いついた。飛行機や新幹線がなかった時代、長距離移動手段のひとつに船があった。僕には往時を偲んでみたいという、耳垢か目ヤニのような妙な願望が心の隅に微妙にこびり付いている。もしくは、廃れて消えてしまいそうなものに惹かれるところがある。廃れて、とは失礼ながら、長距離フェリーは往年頃から較べると航行の数が激減し、全国でいくつものルートが廃船に追い込まれている。

出航は夜だった。予想以上に客は多かった。大学生らしき姿が最も多い。いよいよ乗船となり、ターミナルからフェリーに続く通路を渡り、繋ぎ目をまたいだ。船はかすかに揺れている。船内は意外に綺麗で広く、ちょっとしたホテルのエントランスのような様相だ。船に疎い僕にとっては驚きだった。自分のベッドに荷物を置き、デッキへと出る。お台場のイルミネーションが闇に瞬く。やがて岸を離れ始める。ゆっくりとした動きだが力強く大海へと向かっていく。飛行機と違うのは、このゆったりとした動きであろう。そこにはスケールの大きさを感じさせる何かがある。お台場の光りがオモチャのように小さくなっていった。さっきまでのゆったりした動きとは変わって、かなりの速度で進んでいるようだ。東京湾を出る頃、寒くなってきたのでようやく船内に戻った。それにしても、船というのはなんてスケールが大きいのだろう!としばらく感動は醒めなかった。


旅日記-四国一周に行きたい2<東京徳島フェリー>

2005年8月22日

登場する地:オーシャン東九フェリー(太平洋上)

旅ことば:歳月人を待たず・・・時は人の都合などお構いなしに過ぎていき、とどまることがないということ。


オーシャン東九フェリーは東京-徳島-北九州を結ぶフェリーで、今回は東京から徳島までの約18時間の船旅となる。乗船券と共に渡されたプリペイドカードは食堂ルームにある冷凍食品などの自動販売機で使う。さっそく炒飯を買ってみた。なんとアツアツで出てきた。味もなかなか美味い。1食が少なめではあるが、カードは5食分あるのでうまく配分して使うことにする。この船旅中、炒飯のほかに食べたのは、豚角煮ごはん、うどん、ハヤシライス、ビストロカレー。最初の炒飯の印象が強かったので他の味は忘れたが、たぶんどれもイケてたと思う。

海の上で18時間もいるのは初めてのことだったので、船酔いするかと思っていたが、案外平気だった。後年の長崎の旅でも時化(しけ)のような時にフェリーで数時間海を渡ったことがあるが、このときも案外平気だった。もしかして船乗りの素質があるのかもしれない。といいつつも、エンジンの絶え間ない響きにはちょっとうんざりしていた。

翌日の午前中だったか、紀伊半島の潮岬の沖を通過した。遠く霞んではっきりとは見えなかったが、1年前はそこに立っていたのに今は洋上から見ているという、ちょっと不思議な感動があった。昔の漁師や船乗りもこうして紀伊半島を眺めていたのだろうと思うと、これまた感慨深いものがある。

朝方に雨が降ってくつろぎルームの窓を激しく叩いたが、間もなく雨も上がりフェリーはますます快速を飛ばして大海原を滑っていった。そして昼過ぎに四国と紀伊半島の間の紀伊水道に入り、やがて徳島県のフェリー発着所に到着した。到着までの時間はなぜかあっという間であった。

旅日記-四国一周に行きたい3<海部>

2005年8月22日

登場する地:海部(徳島県)

旅ことば:晴耕雨読・・・世間のわずらわしさから離れて、悠々自適の暮らしを送ること。

生本旅館

室戸岬の付け根に来ている。JR線は海部(かいふ)駅というところまでで、そこから先の阿佐鉄道は2駅しかない路線であり、さらに先に進むためには鉄道以外を使うしかない。フェリーで着いた当日に行けるところまで行き、宿泊施設も問題なくありそうだったのが海部という町だった。

町の印象は、こじんまりとした漁師町ではあるが寂しい感じでもなく、町の構造なのか家々の構造なのかわからないが全体的にほのかな明るさを感じる。暖流が南から運んでくる暖かさのせいかもしれない。北国では感じられない、皮膚感覚の明るさであり暖かさなのだと思う。

駅の案内板で旅館を探し、ともかく実物を見てみようと歩き出した。このころ、僕は電話予約というものを軽くみていた。旅館側にとっては食事や風呂の用意をしなければならないのだから極力予約はすべきである。そんなことさえ僕は考えられない人間だった。それはともかく、旅館の前まで10分くらいで到着した。

ところが、ずいぶん敷居が高そうな旅館がそこにそびえていた。玄関の造りも立派で、これは相当いい値段がすると思い即刻断念した。気持ちも萎えていたところに、向かい側にも1軒の旅館があった。ごく普通の旅館の構えであり、凡庸な僕にもちゃんと敷居を下げてくれている。しかし、自転車を置いた玄関は開けっ広げでどうにも客人に対して油断しているような雰囲気がある。営業しているのだろうかと一瞬訝しんだが、生本(いくもと)旅館という看板はちゃんと掲げられている。娘さんらしき少女が丁度良く現れ訪ねてみると、屋敷の奥へと走って消えた。ちょっとして主人らしき人が出てきてようやく宿泊という目的に向かって動き出した。

旅日記-四国一周に行きたい4<海部>


2005年8月22日

登場する地:海部(徳島県)

旅ことば:溜飲(りゅういん)が下がる・・・わだかまっていた不平不満が消えて、気持ちがせいせいすること。

生本旅館の主人が応対してから実にあっというまに時間が過ぎて、気がつくと満腹の体をテーブルにもたれかけて何かのテレビ番組をぼんやり見ていた。宿泊費を聞こうと思っていたのに聞く間もなく部屋に通され、茶菓子が運ばれ、風呂を沸かされ、風呂に入っている間に食事が用意され、食事し終えたころにデザートのババロアを出していただき、息をついている。

食事というのもとにかく豪勢で、覚えている限り挙げてみると、エビの刺身・ホタテ・もずく・アユの塩焼き・うなぎの蒲焼き・タコの和風カルパッチョ・蟹・牛肉としめじの蒸し焼き・茄子の芥子あえ・海部特産ところてん・漬け物・果物(マンゴー・ブドウ・梨)、と盛り沢山!こんなに多くの種類を一度に食べることはなかなかない。本当に贅沢な食事だった。

ただ・・・そのため宿泊費が心配になった。どれだけ高くつくんだろうか・・・。まあ、心配しても仕方ないし、宿のご主人も女将さんもものすごく親切でいい人たちだし、これだけおもてなしを受けたものに対しては臆せず支払おうというものだ。ひとすくい、ひとすくい、普段以上に味わいながらババロアを口に運んだ。


旅日記-四国一周に行きたい5<阿佐海岸鉄道>


2005年8月23日

登場する地:海部(徳島県)、甲浦(高知県)、室戸岬(高知県)

旅ことば:朝顔の花一時(はなひととき)・・・物事の盛りがきわめて短期間であってはかないこと。


旅館での朝食はごくごく普通だった。夕食がすごかったのでどんなのがくるかと思っていたが、白ごはんに卵に海苔にとシンプルなものであった。おいしく戴き、いよいよチェックアウトとなって気になるのはお値段であったが、七千円台とこちらもごくごく普通のものだった。旅は始まったばかりであり、少し胸を撫で下ろした(心のなかで)。そして最後に旅館の読み方を女将さんに聞いた。「生本(いくもと)旅館」様には大変お世話なった。

さて、室戸岬に向かわねばならない。まずは鉄道で行けるところまでいく。海部駅から先は第3セクターの阿佐海岸鉄道をゆくが、これは2駅しかないのですぐに着いてしまう。終着駅は甲浦(かんのうら)という駅だった。駅の待ち合いで地元のおばさん二人の会話を聞いたところ、以前はJRが甲浦まできていたようだ。しかし経済の血流は地方の先端では十分に巡ってはいないのである。厳しい側面を見せつけられた。

しかし阿佐鉄道は独自の建て直しを図っている。このときは車内に風鈴を吊って風鈴鉄道を企画していた。このような試みでどうか型にはまらず大いに盛り上げ、どんどん血流を循環させてもらいたいと思う。

室戸岬ゆきのバスまで1時間半の待ち。都心にいれば長く感じるだろうが、この四国の隅にいることを考えれば奇跡的に有り難い早さだ。本を読んだりしていれば割りとすぐに時間は経つ。そしてとうとう室戸岬へゆくバスに乗り込んだ。乗客は僕を入れて2人。少しの不安と少しのワクワクを乗せて走り始めた。

1時間ほど揺られただろうか、あまり外の景色も覚えていない。さほど乗客も乗り込まない。単調な時間はうとうとと記憶を空白にしてしまう。わかったことは、交通機関に乗れば、気がついたときには遠い場所に来ているということ、そして遠くなるに従ってお金もかかるということ。バスの運賃箱に千円札といくらかの小銭を入れて終点の地、室戸岬へと降り立った。


旅日記-四国一周に行きたい6<室戸岬>


2005年8月23日

登場する地:室戸岬(高知県)

旅ことば:一念岩をも通す・・・どんなことでも一途に思いを込めてやれば成就するということ。



どんよりとした雲がたちこめている。今にも振りだしそうな空。ようやく念願の室戸岬に着いたというのに、何か気が重たい。かなり閑散としたように感じたのは、バスの終着所がそのような所にあったからだろうか。誤解を招きかねないので先に書くが、後で目撃した限り室戸はサーファーでずいぶん賑わっていた。恐らく波が高いのだろう。サーファーにとっては有数の地なのかもしれない。ほかにキャンプ地としても賑わっているようだ。

さて重い荷物を案内所に預かってもらい、散策を開始。さっそく「灌頂ヶ浜」と呼ばれる海辺に行ってみた。ゴツゴツとした黒い岩場で、大きな波がぶち当たるたびに波しぶきが十メートルくらいの高さに上がる。弘法大師空海が修行をした場所とされ、「灌頂」の名もそこから取ったと思われる。なるほどこの荒々しさは不動明王がいる世界への入口だと言われても不思議ではない。



展望台があるというので行ってみた。室戸岬を一望できはするが、なんだか味気なかった。教科書にあった海岸段丘の壮大さが感じられない。もっと上の方から眺める必要があると思い、海岸に迫り来る段丘の上に行こうと思った。

ところで、展望台に向う途中で崖を背にして睨み立つ銅像と行きあった。中岡慎太郎の銅像だった。彼はこの付近で生まれ育ったようだが、このとき僕は幕末の海援隊を興した坂本竜馬と並んで陸援隊を率いた中岡慎太郎という人物のことをほとんど知らなかった。この四国一周の旅を終えて数年後、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読んでやっと中岡慎太郎の骨肉を知ったのである。この荒々しい地と波が彼のような攻撃主体の人格を形成した、などというのはこじつけだが、そんなことを言ってみたくなる景色を室戸岬は持っていた。

旅日記-四国一周に行きたい7<室戸岬>

2005年8月23日

登場する地:室戸岬(高知県)

旅ことば:精神一到何事か成らざらん・・・精神を集中して努力すれば、どんなことでも成し遂げられないことはないということ。



室戸岬は海岸段丘の好例地である。海岸段丘とは土地が隆起するたびに波に削られ、それが繰り返されることで段々のようになる地形を言う。室戸岬の場合は先がとがっていて、いわばショートケーキのスポンジ部分だけ、ちょっとずつサイズを小さくしていって3段ほど重ねたような形と言えるだろう。

その一番上のスポンジに立つ灯台まで上ってみたのだが、そこまで上がるのに肝を冷やした。スポンジとスポンジの段差にカーブを描きながら道路をかけているが、歩道の幅が50センチほどしかなく、手すりも腰のあたりまでで、手すりの向こうは遥か下に地面があるばかり。のぼればのぼるほど地面が下に遠ざかっていくという、高所恐怖症の人は足がすくんで恐らく一歩も進めなくなるくらい、スリルのある道を通るはめになった。この体験のお陰でだいぶ度胸がついたように思うほどだった。「あの道を通れたんだから何だって恐くない!」と。



灯台のところまでくると、やっと室戸岬に来たのだという感慨が湧いた。変なことを言うようだが、海岸段丘を味わいつつ、海岸線や室戸の町を見下ろしていることで気持ちが収まった感じだ。まだ上があるようだったので向かおうとしたが、無情にも雨が落ちてきてしまい断念。一番したのスポンジにある案内所まで急いで戻り、濡れたシャツを取り替えるなどしてそのままバタバタと室戸岬をあとにしたのだった。

旅日記-四国一周に行きたい8<土佐くろしお鉄道阿佐線>

2005年8月23日

登場する地:奈半利(高知県)、安芸(高知県)、後免(高知県)

旅ことば:金石(きんせき)の交わり・・・友情のきわめて堅く結ばれていること。また、いつまでも変わらない交際のこと。

登場する地に奈半利、安芸を挙げているが、残念ながら滞在時間はどちらも短い。しかもほとんど記録も記憶も残されていない。ここからは推測を交えて書いていく。

室戸岬からバスで奈半利まで行った。奈半利からはようやく鉄道が走り出している。奈半利という地名はなんだか好ましい。おそらく何かの当て字ではないかと思う。もう少しゆっくりできればよかったがすぐに鉄道に乗ってしまった。続いて降りたのは安芸駅。三菱財閥の創業者で知られる岩崎弥太郎の生地であるが、このときの僕はそれさえの教養も無く、単なる乗り継ぎの駅として通り過ぎてしまうのである。歴史や文化の面から見ても面白い発見がありそうなところなので、またいつかゆっくり訪れてみたい。

岩崎弥太郎銅像

安芸を発ち、ゆらりゆられて土佐くろしお鉄道阿佐線の終点(奈半利からみて)の後免駅に到着した。ここからは推測なしで書くことになる。僕がサッカーをやっていたとき千葉で知り合った選手が、とある職業に就くべく高知にやって来ていて、この後免に住んでいる。都合上その人をYと呼ぶことにしよう。高知に行くことはYに伝えてあったので、電話をしてタクシーでアパートを訪問した。すごく久しぶりに会ったが気さくに招き入れてくれ、その夜は泊めてもらうことになった。Yとはサッカーをしていたときも波長が合い、この日もそのノリで高知市内に繰り出して飲みに出かけた。

ひろめ市場

ひろめ市場という、高知城下にある居酒屋に連れて行ってもらった。ここはすごく面白い。体育館ほどもある広さで壁の周囲に沿って店舗が並んでいる。客は好きな店で好きなものを買い、施設の中央に用意されている長テーブルと長イスで好きな場所に座って飲食する。和風ブリティッシュパブというか、土佐の豪快なイメージと相まって楽しい時間と空間である。食べ物にはつまみ系はもちろん、定食やどんぶりまで色々あって選ぶ楽しさもある。カツオのたたきは肉厚でさすがに本場ものだと思った。また、ここで初めて酒盗(しゅとう)というものを知った。塩辛のような独特のクセがあるものだが日本酒がよく合う。ついつい酒が進んでしまうのでまるで酒が盗まれるようだ、というところからついた名前だとか。いろいろな思い出話もして帰りにはラーメンを食べてと、楽しい時間を過ごさせてもらったYに感謝である。

旅日記-四国一周に行きたい9<高知市>

2005年8月24日

登場する地:高知城(高知県)

旅ことば:耳学問・・・自分で学んだり研究したりしたのではなく、人から聞きかじっただけの知識や学問のこと。



朝、仕事に出勤する友人Yに礼を言って別れた。僕は高知市内を目指し、後免東町から路面電車に乗った。それにしても「ごめん」という響きが失礼ながら面白い。漢字ならいいが路面電車はひらがなで行き先を表示しているので、まるで「ごめん」と謝りながら走っているように見える。なんだかほっこりしてしまった。

高知市内に着き、JR高知駅で荷物をコインロッカーに預け、早速散策してみた。高層ビルというものがないので空が広々していて気持ちがいい。アーケード街も大きい。休日はきっと賑わっているだろう。昨晩飲んだひろめ市場を見つけたりしながら、高知城へと行き当たった。これまで城にはさほどの興味がなかった僕が強く関心を示すようになったのはこの高知城を訪れたせいかもしれない。



追手門を「おうてもん」と正しく読めるようになったし、二ノ丸や三ノ丸には城主に仕える人々が住むのだと知ったし、弓矢を射るための壁の穴、狭間がちゃんと内側が広くなっていることを確かめた。そして天守閣からの眺めが素晴らしかった!高知市内を一望でき、なんとも贅沢な気分だった。一度下に降りたのに、なんだかもったいないと思いまた上にのぼってしまったくらいだ。ちなみに入場料は400円だった。

高知城を後にするとき、金のブレスレットをしたこわもてで恰幅のいいおじさんが観光云々と声をかけてきた。お金もないし何よりちょっと怖かったので逃げるように立ち去った。このくらいでびびるとは。。うーん、人間的に僕はまだまだである。サンマルクカフェに入ってようやく一息ついた。

旅日記 - 四国一周に行きたい10<桂浜>

2005年8月24日

登場する地:桂浜(高知県)

旅ことば:花は桜木、人は武士・・・花の中では桜がもっともすぐれており、人の中では武士が第一であるということ。


時間はまだ昼過ぎ。高知といえば坂本竜馬像のある桂浜だ。ここまで来たからには行くしかない!ということでバスを探す。桂浜は高知駅からだいぶ離れているので徒歩は2、3時間かかると見込んでバスを選択。しかし観光バスが出てはいるものの、ちょうど良い時間のものがない。こうなったら路面電車で行けるところまでいってしまえ!と桂浜に向かって終着のひとつ前の停留所で降りた。確か運転手さんに民間バスのことを聞いたのだと思う。だから終着ひとつ前で降りたし、その後ちゃんとバスに乗れている。(この辺の記憶は曖昧で、日記にも詳しく書いていない)

着いた!桂浜!波が高い!!
たまたまなのか、いつもそうなのか、どどーん!と急な砂浜にぶつかっては、ざざーん!と引く、それを繰り返していた。荒々しさと波が打ち寄せるたびに砂を洗うアクアブルー。美しく狂暴に自然は迫ってくる。こんな海は見たことがなかった。場所が変われば土地も人も海さえも違う特徴を持つのだ。

坂本竜馬の像があった。見上げて何枚か写真を撮ってはみたものの、あまり感慨が湧いてこない。この頃はまだ竜馬のことをあまり知らなかったということもある。なんだかんだで生き抜いた勝海舟のほうが偉いと思っていた(生き抜いたという点では今でも偉いと思っている)。その後、司馬遼太郎「竜馬がゆく」や福山雅治主演の大河ドラマなどを見たりして幕末のことを知るようになる。つくづくこの桂浜を訪れていて良かったと何度も思った。

桂浜。忘れられない地になったことは間違いない。

旅日記 - 四国一周に行きたい11<中村>

2005年8月24日

登場する地:中村(高知県)

旅ことば:暗中模索・・・手がかりのないままに、色々と試してみること。


この旅は四国を一周している。日程も限られているため桂浜を後にして早々、すぐ次へと向かわねばならない。案内所で聞いたところ、西のほうでは中村という町が大きいという。足摺岬も中村からバスが出ているそうだ。次の目的地は決まった。今晩はそこに泊まることにする。

高知の金券ショップで残り3回の青春18切符を買ってローカル線に乗り込んだ。窪川というところからは第3セクターらしく青春18切符も使えなくなった。すっかり夜の闇が包み、若干の不安を抱えながら中村駅に到着したのは22:30頃だった。

なるほど大きい町のようで宿泊施設もたくさんある。しかし、この時間から探すのはさすがに難しい。あるにはあるが、ちょっと寝るだけなのに五千円以上も払う余裕はあまりなかった。いろいろ探し歩いて諦めかけたとき、23:00を過ぎたというのに玄関が解放されているビジネスホテルがあった。値段を聞いてみると3,800円と手頃だ。なんとも有り難いことだ。

このビジネス旅館「鈴」はどうもタクシーの社員宿泊施設を利用したもののようだ。つくりが割りに簡素だし1Fにはやはりタクシーが待機していた。ともかく寝る場所と風呂にさえ入れれば全く問題なし!睡魔と戦いながら日記を書いたあと、深い眠りに落ちた。

旅日記 - 四国一周に行きたい12<足摺岬1>

2005年8月25日

登場する地:足摺岬(高知県)

旅ことば:大欲は無欲に似たり・・・大望を抱いてる者は小さな欲になど目もくれないから、一見無欲に見えるということ。また、欲が深すぎる人は欲に惑わされて損をすることがあり、結局は無欲と同じような結果になるということ。


日記を書くというのは案外時間がかかる。前の晩、睡魔と戦いながら遅い時間まで書いていたので充分な睡眠を得ていない。そのため7:00発の足摺岬行きを見送り、その分すこし長く寝て、8:20発のバスに乗った。荷物はギターなどがロッカーに入らず、JRに預けた(ちなみに
 260円)。

バスは途中途中の各集落をまわりながら進んでいく。乗り込んでくるのはみんな年配の方ばかり。この人たちにとってはバスは貴重な交通手段なのである。この路線でちょっと面白かったのは、どこかの港町で突然バックしてUターンをしたことだ。バスの回し場である案内文もそこらに貼ってあった。路線中で完全Uターンしたのは初めてだった。

そして足摺岬に到着。ところがバス料金を払うとき、一万円札しかなく、運転手さんから両替できないと言われてしまった。うーむ、困った。すると運転手さんが、回数券を買ってくれればお釣りを出せることに気づいてくれ、そのようにした。20回分あるうち17回と40円を払う。・・・すると1,740円かかったということか。

と、ともかく展望台へ行ってみよう。

旅日記 - 四国一周に行きたい13<足摺岬2>

2005年8月25日

登場する地:足摺岬(高知県)

旅ことば:圧巻・・・書物、劇、催し物など、全体の中でもっともすぐれているところ。


すごい景色だ。海食崖の断崖絶壁が続く。むき出しの大地に荒い波がぶつかり砕ける。四国の大平洋側の海辺はどこも荒々しいが、この足摺岬はさらにスケールの大きさが感じられた。

どうしてこんなに波が荒いのか考えてみた。大平洋の波のエネルギーが何に遮られることなく四国にぶつかってきているせいだろう。何年も何年もぶつかり、断崖絶壁をつくった。時は流れ、そしてこれからも流れ続ける。太陽は上から容赦なく日差しを投げ掛けていた。

足摺岬にはビロー樹や椿がたくさん植えられていて、遊歩道は南の樹に囲まれて眩しかった。ただ足元にはフナムシがおそろしいほど沸いて出ていて、肝を冷やしながら歩みを進めた。途中から開き直って気にしないように歩いたが、このフナムシは厄介な存在だった。


天狗鼻という岬や白山洞門という奇岩を見たりして過ごした。白山洞門は海面まで降りたところでみれる。ドーナツ型の岩を横目に、ここは波が穏やかだったので、しばし石に腰をおろしてくつろいだ。ここでようやく土佐に来た実感を得た。じっくり潮の空気を吸うことができたためだろうか。

帰りのバスまでまだ少し時間があったので、散策がてらジョン万次郎ハウスに寄ってみようと思った。ジョン万次郎は14歳のときに海の事故でアメリカ捕鯨船に助けられ、アメリカでの生活の末に幕末では国際交流に貢献した人物だ。それにしても定休日とは、ツいてない。。ジョンの銅像の写真を撮ろうとしたときもデジカメのメモリがなくなっていて撮れなかった。ジョンとは縁がないのだろうか。。

足摺岬は椿の葉の照り返しのせいだろうか、どことなく明るい印象を受けた。曇っていて陰気な感じさえあった室戸岬とは真逆の陽気な印象だ(室戸岬も晴れていればそう感じたかもしれないので、その辺はあしからず・・・)。だからきっとジョン万次郎も陽気な性格だったに違いない(大河ドラマ「龍馬伝」ではトータス松本が明るいキャラクターとしてジョンを演じていた)。



旅日記 - 四国一周に行きたい14<四万十川>

2005年8月25日

登場する地:四万十川(高知県)

旅ことば:深い川は静かに流れる・・・分別のある人や思慮深い人は、ゆったりとしていてやたらに騒がないということ。また、中身がある人は悠然としていて、出来ていない人ほど騒々しいものだということ。


四万十川は、「最後の清流」と呼ばれている。

中村まで帰る途中、四万十川に寄った。四万十川は高知県の西部を流れる一級河川である。バスの運転手さんに聞いて甲ヶ峰という停留所で降りた。ここが四万十川に近い停留所だなんて、聞かなければ絶対わからない・・・。

この時期、1時間おきに屋形舟が出ているというので乗ってみることにした。14時出発のにギリギリ間に合った。しかし乗ったのはワゴン車。おや?どうやら舟着場まで少し距離があるらしい。なるほど。同じ舟に乗ったのは10人ほど。舟の舳先で靴を脱いで席に着いたような記憶がある。

四万十川の水面が目の高さにある。暑い日だったがエメラルドグリーンの水面を滑りゆく風が気持ちいい。海か湖かと思えるほど川幅は広く、深さも深いところでは20〜30メートルにもなる。鮎漁の実演もパックされているようで、漁師さんの舟に近づき網投げをしばし見学。きれいな円を描いて網は着水、漁師さんがゆっくり引き上げるも残念ながら何もかからなかった。ちなみに漁師さんは20歳くらいの若い男性だった。


僕が乗った舟のガイド兼船頭さん「てっちゃん」は、四万十川についていろいろ教えてくれた。台風の重要性(水かさが増すことで川がきれいになる!)、ウナギ漁の方法(例えば夕立ちに流される虫を食べるために川壁から顔を出しているウナギを捕まえる方法)、子どもの頃に川幅600メートルを泳いで渡ったこと、漁師になろうと外からやって来ても長続きしないこと、それなら青海苔漁のほうがまだ何とか続けられるということ、etc。とにかくてっちゃんにとっては四万十川が人生でかけがえのないものになっていることが充分に伝わったひと時であった。

舟を降りて昼食。特製弁当にはウナギ、川エビなど四万十川特産の品々が詰まっていた。中でも青海苔がなんとも言えず美味で、後でお土産で買わなかったことを悔やんだくらいだった。また、四万十川ではアカメという魚が獲れる。目がルビーのように赤い魚だ。しかも大きさは小柄な女性ほどにもなる。大きな四万十川ならではの魚だ。アカメ館というところで水槽にいる実物を見れたり釣り上げられた写真などがあるので訪れてみてほしい。

帰りのバスを待つ間、大量の羽虫が地面に落ちているのを見た。近くにいた交通整理のおじさんがカゲロウだと教えてくれた。大自然の四万十川では、人間の敷いた道路に関係なく生命の循環が大きな水車のように回り続けている。

手記の日記には四万十川のくだりの最後にこう書かれていた。「ああ、面白かったなあ、四万十川。」率直な感想が滲み出ていた一文だったのでそのまま記載しておく。

旅日記 - 四国一周に行きたい15<若井駅>

2005年8月25日

登場する地:若井駅(高知県)

旅ことば:人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し・・・人生は長く苦しいもので、努力と忍耐を怠らず一歩一歩着実に歩むべきだということ。

(外部サイトから参照)

中村駅から列車で愛媛県は宇和島に行こうとすると、一旦高知寄りに戻る必要がある。その乗り換えの駅に若井駅を選択したが、少々失敗した。無人駅でほぼホームしかない若井駅で2時間待つことになってしまったのだ。18時から20時まで、どうしよう。周りは静かで自然もたくさんでいい所なのだが、列車待ち合わせとなるとやや厳しい。ただ、ひたすら待つしかないのだ。

とはいえただひたすら待っているのも耐え兼ねて周囲を散策。きれいな川を見つけた。四万十川の十分の一とか百分の一の大きさだが、親しみのもてる手頃な川。川辺まで近づくとメダカのような小魚の群れが泳いでいて、石で囲いを作ってお遊びの罠をしかけてみたりとしばし童心に返って過ごした。

そのうち日が暮れてきた。ホームに戻り誰もいないのでギターを弾いてみたりしたが、辺りが暗くなってホームの街灯が点ると虫が大量に集まってきて大変になった。人間が作った街灯なのに虫によって人間がそこから追い出されたかっこうだ。ああ、なんとも情けない。。

そしてライトを照らしながらようやく列車が近づいてくるのが見えた。

旅日記 - 四国一周に行きたい16<宇和島>

2005年8月25日

登場する地:宇和島(愛媛県)

旅ことば:旅は道連れ世は情け・・・旅をするときに道連れがいると心強いように、世の中を渡っていくには人情をもって仲良くやっていくことが大切だということ。


ようやく宇和島に着いたのが22時過ぎで、すっかり夜も更けていた。宿は予約を取っていないためこれから探さねばならない。出来るだけお金をかけずに旅をするということに主眼をおいていたこともあり、この時間から安宿を探すのは厳しいように思われた。

案の定、手頃な宿は見つけられず、若気の至り?で野宿を敢行。四国電力の軒下を拝借して日記を書きつつ仮眠をした。今考えると愚行である。不審者として補導されてもおかしくないだろう。決して真似されないことを祈る。

ただ、そのような無鉄砲なことが出来たこともあった、ということが今の僕の一部分を支えているのもまた事実だ。

それにしても宇和島というところは、椰子の並木があったりして南国ムード漂うところだった。今回は駅前を散策するにとどまったが、今度ゆっくりまわって見たい。確か宇和島藩には幕末あたりに伊達家の聡明な藩主がいた。仙台藩の伊達家と繋がりがあったと思うが、その辺りの匂いをもっと嗅いでみたい。

そして夜が明けて始発に乗り込んだ。向かうは松山。一気に進む。

(宇和島市観光ガイドより)

旅日記 - 四国一周に行きたい17<松山>

2005年8月26日

登場する地:松山(愛媛県)

旅ことば:待てば海路の日和あり・・・今は状況が悪くとも、あせらずに待っていれば幸運はそのうちにやってくるということ。


松山に着いてその街の大きさ、賑やかさにまず驚いた。「坊っちゃん」の町、そして「坂の上の雲」の町である。「坊っちゃん」は言わずと知れた夏目漱石の代表作。松山駅前でも盛んにアピールしていた。「坂の上の雲」は司馬遼太郎の代表作。ドラマ化が決定していたこともあり、こちらも意気が上がっていた。

松山を訪れたのは、高知でYに会ったとき道後温泉のことを聞いていたからだ。もし聞いていなかったら素通りしていたかもしれない。ただし素通りを許さぬほど有名で由緒ある温泉である。

とにかく、汗だくの体を洗い流したかった。荷物をコインロッカーに入れ、着替えを持って路面電車に乗る。松山の町並みを眺めながら終点の道後温泉に行き着いた。20分程度だったと思うが、運賃が150円程度という安さに感服した。これならみんな気軽に利用するだろう。

道後温泉に向かう入口はすごく賑わっていた。3メートルほどの高さの坊っちゃん時計が何時かをさすと小説で登場するキャラクターたちが鳩時計のようにひょっこり出てきて客を楽しませている。

すると知らないおじさんが話しかけてきた。セールスか何かと思って身構えたが腕にボランティアの腕章を着けているのを見た。ボランティアのガイドだった。ちょっと安心して話しを聞いてみることに。道後温泉の歴史や坊っちゃんについて話してくれたと思う。だがそのほとんどは忘れてしまった。ただ、ひとつの提示された内容はその後の旅をも変えるほどの転機をもたらすことになる。

旅日記-四国一周に行きたい18<道後温泉>

2005年8月26日

登場する地:道後温泉(愛媛県)

旅ことば:埋もれ木に花が咲く・・・世間から忘れ去られ不遇の身にあった人が、幸運にめぐり合い世に迎えられること。


ボランティアのおじさんに声をかけられた僕は、さらに時間があるかと聞かれ、案内所のような場所に連れていかれた。そこには道後温泉のミニチュア模型がある部屋だった。ではかいつまんでおじさん直伝のご案内をしよう。

道後温泉は日本最古の温泉である。道後温泉を象徴する建物自体は夏目漱石が松山へ来て2年後に出来たものだ。それ以来一度も建て直しはされていない。当初の入口は3つ並んで現在と違う場所にあった。今は閉鎖されているが見ることは出来る。左から武士や僧侶、真ん中は女性、右は男性とそれぞれ専用の入口となっていた。天皇・皇室用に作られた入口も別途ある。

風呂は1階が通常の湯の「神の湯」、2階はやや格上の「霊(たま)の湯」と座敷があり、3階は個室の座敷と坊っちゃんの間がある。さらにその上、屋根に目をやると道後温泉のシンボルであるサギがいる。料金は神の湯しか入れないコースから、格上の霊の湯にも入れてお茶とお菓子が付き、坊っちゃんの間に入ることが出来るコースまである。

とまあ、だいたいこのようなところだ。僕は話しを聞いていて一番安いコースでいいだろうと決めていた。しかしそれを察したかのようにおじさんは一番上のコースをおすすめしてきた。みんな安いコースを選ぶが、そんなにべらぼうな値段の差はない、せっかく入るのだからやはり風情があるほうがよい、と言う。

僕はこの時、何かがパーンと弾けるような感覚を得た。そうだ、その通りだ。「風情」。これを感じるにはそれなりの対価を払わなければ得られない。僕はそれまでお金に関しては倹約家的な考えしか出来なかった。しかしこの時を境に、必要なときは出し惜しみしてはいけないことを学んだのである。

おじさん、ありがとう。この方は月イチの午前中だけボランティアしているそうだ。しると僕はかなり奇跡的に出会ったことになる。一期一会とさえも言い表せないような、今後の僕の人生の機転になった日だった。

旅日記-四国一周に行きたい19<道後温泉>

2005年8月26日

登場する地:道後温泉(愛媛県)

旅ことば:人間到る処(ところ)青山(せいざん)あり・・・世の中は広く、死んで骨を埋める場所ぐらいどこにでもあるのだから、大望を成し遂げるためにならどこにでも行って、大いに活躍するべきであるということ。


商店街を抜けると、そこは道後温泉だった。

温泉地特有の土産物屋が並ぶ商店街を通り抜けると、格式が高そうな建物がどっしり構えていた。3つ並んだ入口や皇室専用入口、屋根の上のサギをひと通り眺めた。よし、入るぞ!

ボランティアのおじさんが勧めてくれた一番上の料金1,500円を払って中へ入る。中は歴史を感じさせる古い作りになっていて雰囲気がいい。

3階へ行けというので上がったが誰もいない。廊下をはさんでいくつか部屋がある。奥へ進むと坊っちゃんの間があった。勝手に入るのも何なので、ちょっと中を覗くくらいにして隣りの空いている部屋に入って腰を下ろした。やっぱり誰も来ないので、廊下に出て誰かいないか探してみようとしたら奥の方に人の気配が。やっと女中さんをつかまえた。

女中さんは僕を別の部屋に案内して(坊っちゃんの間の向かい)、浴衣に着替えるよう指示した。着替えた後は階段を下りろという。※もちろん丁寧に指示を受けている。階段を下りて2階へ行くと別の案内の女性が待っていて、天皇がご使用になられた部屋を見るかを聞かれ、もちろん、YES。3種の神器が置かれた部屋は天皇がご利用になった部屋、いい石で作られた浴槽は実際にお入りになったもの、それらを観覧したが、庶民にはよくわからない。ただ、特別感は味わえたと思う。

観覧も終わり、今度は僕が入る番だ。霊(たま)の湯は先客が2人だけだった。人が少ないのでゆったりした気分で入れた。石造りのお湯の噴き出し口がある湯舟も風情があっていい。「風情」。風情とはこういうことを言うのかもしれない。

さて、1階の神の湯にも入ってみようと下へ降りると、広々とした更衣室と多くの人がいた。夏目漱石がいた頃の賑わいが想像される。浴室は開放感があって明るく、石造りの置物もあったりして、道後温泉に入ってるなあ!という感慨が湧く。しかし一番安い料金でも入れる風呂はワイワイと人が多い。もう一度2階に上がって霊の湯に入った。今度は誰もいなく、ますますゴージャスな気分を味わえたのだった。
皇室入口

旅日記 - 四国一周に行きたい20<道後温泉>

2005年8月26日

登場する地:道後温泉(愛媛県)

旅ことば:則天去私・・・我執(がしゅう)を捨てて自然に身をゆだねて生きること。

大満足でまた3階に上がり、部屋で扇風機を回して吹き出す汗を紛らわす。そして女中さんがお茶と団子を持って来てくれた。暑さを考慮してだろう、ぬるめのお茶と坊っちゃん団子と称する三色の団子。居る部屋はもちろん和室。開け放たれた障子の向こうのすだれ越しには真夏の青い空。ボランティアのおじさんが言っていた「風情」とはこのことだったのかもしれない。

せっかくなので坊っちゃんの間を見てみようとその部屋に入った。なぜそのように呼ばれているかというと、夏目漱石がその部屋で誰だかと話しをしていたことによるものである。別にその部屋で小説を書いていたとかいうわけではないらしい。

「則天去私」と書かれた額がかけられていた。漱石が好んでいた言葉のようである。「天に則し、私を去る」となるだろうか。無我となって天の命ずるところを為す、のように自己流に解釈しているが、この旅が終わった後もずっと心に残っている。いやむしろそれを目指して生きている僕がいる。道後温泉に来たのは、この言葉に出会わせるために天が僕を導いたためだろうか。

坊っちゃんの間

道後温泉、またいつの日か訪れたい。

旅日記 - 四国一周に行きたい21<松山城>

2005年8月26日

登場する地:松山城(愛媛県)

旅ことば:危急存亡の秋(とき)・・・生き残れるか滅びるかの大きな瀬戸際に立たされているときのこと。

道後温泉の停車場に戻り、大街道というところまで乗った。松山城に行くためである。高知城もそうだが、その土地その土地にお城があり、この頃からお城について不思議な魅力を感じ始めていた。この旅以降、お城に行くのが恒例となった。

大街道の停車場の近くに松山城に登るロープウェイがある。松山城は小高い丘の上にあるのだ。暑いので行きだけロープウェイを使うことにした。停車場から近いといっても10分ほど歩くような距離だったので、道後温泉で流した汗はすっかり新しい汗に取って代わられた。ロープウェイがあるほどだから余程標高があるのだろうと思っていたが、あっけなく着いてしまった。自分にとっては、暑さしのぎには良かった。

広い三の丸には木がまばらに生え、容赦なく照りつける太陽を避けるには小さすぎる木蔭を選びながら天守閣へと向かった。

天守閣の前に立ち、見上げてみるが何か地味な印象があった。入場料を払って中に入るとさらにその印象は増した。弓矢を建物内部から射るための狭間と呼ばれる穴がやたらと多いためでもあった。後で松山城のビデオ紹介を見たときに謎が解けたが、初代城主はどうも警戒心が強かったらしい。お城を要塞のようにするべく建てたらしく、戦闘を主眼において余計な飾りがないために地味な印象を与えたのだろう。刀や槍とともに、何代かの城主が並んで座っているかのような鎧の展示を見ても、何か鬼気迫るものがあった。

天守閣からの眺めは、残念ながら工事中のために青いネットと金属の足場によって味気ないものだった。帰りはロープウェイを使わず徒歩で降りる。思ったとおり、そんなに時間もかからず降りることができた。

その後、アーケード商店街を通りながら松山駅に向かった。松山は大きな街で、アーケードを周るだけでも結構な時間がかかる。松山では路面電車をうまく使うのが良いのかもしれない。

旅日記-四国一周に行きたい22<今治>

2005年8月26日

登場する地:今治(愛媛県)、大島(愛媛県)

旅ことば:見るは法楽(ほうらく)・・・自分の目でいろいろなものを見るのは楽しいということ。また、見て楽しむだけならただであるということ。



瀬戸内海の夕日が見たい。
この四国一周の旅ではそのことも頭にあった。松山を出て海沿いのどこかで夕日を見るには時間的にチャンスであると思った。問題はどの駅で降りるかだ。松山からだと四国の左上の海岸線をなぞるように予讃線が通っている。どの駅で降りても夕日を拝めるように見える。しかし地図で見ると駅を降りても海まで遠かったり夕日が見える角度ではないように思えたりして、グズグズと悩みながら今治まで行ってしまった。

今治に降り立って、そこが今治タオルと呼ばれるタオルの産地であることを知った。とても質の良いタオルのようで、全国的に有名らしい。旅の醍醐味のひとつはこのようにその土地の名産を生で知れることだ。

さて、今治を地図で再度確認すると、突起物のように突き出た半島の陰になって、海に出ても夕日は見れそうにないではないか。いまから別のところに行けば確実に夕日に間に合わない。どうする、どうする・・・。

とにかく海に向かった。歩いているうちにも日は傾いてきている。そして、やはりあった!瀬戸内海に浮かぶ島へのフェリーだ。大島の下田水港が一番近くて夕日も見れそうだったので、17:30のフェリーにとにかく乗船した。

瀬戸内海は穏やかだった。海と空と島と、傾いていく太陽しかなかった。30分ほどで下田水港に到着。夕日が見れそうなところを探して歩く。もうだいぶ太陽は海に近い。防波堤が続いている。数分歩いてなんとなく良さそうな感じのところに来た。もうこの辺りでいいだろう、そう決めてゆっくり夕日を眺めた。

穏やかな海に太陽が沈んでいく。この夕日を見るためにフェリーに乗ってまで、僕は何て馬鹿なんだ、とは思わなかった。ただ、何をやっているんだろうと、ふとこみ上げることはあった。しかし後悔はなかった。なぜなら、本当に素晴らしい瀬戸内海の夕日を見ることができたからだ。



旅日記-四国一周に行きたい23<今治~高松>

2005年8月26日

登場する地:今治(愛媛県)、高松(香川県)

旅ことば:花も実もある・・・外見が綺麗なばかりでなく、中身も充実していて名実ともに優れていること。また、人情と道理ともに兼ね備えていること。



今治に戻ったときにはすっかり暗くなっていた。夕日鑑賞に駆け回った時間は正味1時間程度だった。暗くなった今治港からアーケード商店街を通って駅に戻る。商店街とはいえ、ほとんどの店のシャッターが閉まっていた。たまたまなのか、世の反映なのか、行政と暮らしというのはとても難しい。



愛媛といえばポンジュース。コンビニ弁当とポンジュースで夕飯を食べつつ高松行きの電車を待ち、20:22に今治を後にした。高松に着いたのは深夜0時を過ぎていた。およそ4時間かかったことになる。しかし車内のことはほとんど覚えていない。疲れているからウトウトと眠って過ごしたのだった。



高松に降り立ってまず思ったのは、嬉しいという感情だ。初めての四国で、徳島から入って高知、宇和島、松山と一周して辿り着いた高松。無事到着した安心感と充実感でそのような感情が出たのだろう。それにしても高松は大きな街だ!アーケード商店街も複数交差するように張り巡らされている。

宛てもなく、といった感じで歩いていると、銭湯の看板を見つけた。これは助かる!午前3時までやっているというのでのんびりと汗を流し、洗濯もする。ところが午前2時前に店じまいが始まった。聞くと不景気で閉店時間を早めたらしい。ただ、洗濯が終わるまで居てもいいと言ってくれ、さらに乾燥機があるコインランドリーの場所も教えてくれた。なんて温かいお言葉!ただ、不覚にもどこの銭湯だったか覚えていない・・・。あとで調べたところ、マツモト温泉(現在休業中)かにしき温泉さんであると思われる。覚えてなくてすみません。そしてありがとう。

コインランドリーで乾燥を終え、洗濯終了。その後また市内をさまよい、インターネットカフェを発見。今夜の宿をそこに決める。眠りについたのが午前4時・・・。宇和島からもりもり訪れて一気に高松まで来たのだ。深い眠りに落ちるのは決して不思議ではない。

旅日記-四国一周に行きたい24<高松~小豆島>

2005年8月27日

登場する地:高松(香川県)、小豆島(香川県)

旅ことば:運根鈍(うんこんどん)・・・成功するには、運のよさと根気とねばり強さの三つが必要だということ。


釜玉うどん

外で朝の光を浴びたのは午前10時になってからだった。香川に来たからにはうどんを食べねばと思っていた。チェーン店っぽい店ではあったが、あまりうどんにこだわりはないためそこで食した。こしがあって、うまい!値段は忘れたが安かったと思う。だから追加で釜玉うどんも食べたのだろう。それもおいしかった!

さあ、腹ごしらえもしたし、次なる行動へ移る。目的地は小豆島(しょうどしま)。二十四の瞳の舞台となったところだ。壺井栄の小説「二十四の瞳」である。この旅の頃の僕はお恥ずかしながら誰が書いたとかどんな物語とかはよくわかっていなかった。僕が知っているのは黒木瞳が主演したドラマ。おそらくそのロケも行われたであろう、映画村があるというので行ってみることにしたのだ。

高松からフェリーで小豆島へ渡る。行き先の港が3箇所ぐらいあって迷ったが、一番便数が多い土庄港行きに決めた。高速艇で3,40分程度の距離である。天気もよく、旅の最後として上々の日だった。

旅日記-四国一周に行きたい25<小豆島>

2005年8月27日

登場する地:小豆島(香川県)

旅ことば:一念天に通(つう)ず・・・物事をなしとげようとする強い信念があれば、その心は天に通じ、必ず成就するということ。



土庄(とのしょう)港に着岸し、しばしぶらぶらと港周辺を散策。なんだか静かで穏やかなところだと感じた。小豆島はオリーブでも有名のようだ。いろんなオリーブ商品が売っている。オリーブ油、オリーブ茶。・・・オリーブ茶?・・・試しに買って飲んでみる。・・・ふむ、青いみかんが入ったような柑橘系の香りがするお茶で、ハマる人はハマる味、かな。さてレンタカーを借りようとしたが満杯。ツアーバスを見つけたが既に出発して終わっている。仕方ない、普通のバスを使うことにした。

土庄港は二十四の瞳の映画村まで一番遠い港だ。なんとバスで1時間かかってしまった。バス代は千円。とはいえオリーブ園を経由したり、きらきらした海が見える丘を通ったりして楽しめたから、その分の料金も含むと思えばそれでよかった。



ようやく映画村に着くと、観光客が多くて賑やかだ。さっそく中に入る。撮影に使った場所を公開しているといった感じの構成だ。壺井栄に関する品々を展示している壺井栄館があったので入ってみる。この小説家のことは映画村に来て知った。見知らぬ土地に来て出会うものは否応なく記憶に刻まれるので有難い。他に教室や職員室を見て回ったがバスの時間が気になって仕方なかった。映画村に着いてから土庄港行き最終便まで30分しかなかったからだ。でもあまりに早すぎる。もう、知らん!何とかなる!とついに開き直り、最終バスを見過ごした。



ただ、映画村自体はなんだか物足りなさを感じていた。風景はいいのだが、おそらく「匂い」がないからかもしれない。映画用に作り物を置いてはいるが、そこには当時の匂いを感じさせるものがなかったように思った。



映画村を出て腹ごしらえ。オリーブそうめんというものを食べた。店には小豆島出身という俳優の石倉三郎さんのサインと写真が飾ってあった。オリーブそうめんはのどごしもよくとってもおいしかった!さて、もう日が傾き始めている。どうやって高松まで帰ろうか。土庄港直行のバスはもう終わっていたが、乗り換えでもしかしたら行けるかもしれない路線が残っていたので乗り込む。

旅日記-四国一周に行きたい26<小豆島~終わり>

2005年8月27日

登場する地:小豆島(香川県)、熱海(静岡県)

旅ことば:転がる石には苔が生えぬ・・・よく動き、働く人が生き生きしていることのたとえ。また、仕事や住居を転々としている人は、成功せず、金もたまらないことのたとえ。



土庄港から高松までの最終フェリーは18:55。あと1時間あるかないかのところだったろうか。乗り換えで降りたマルキン醤油の停留所。どうやら別の路線がまだ残っていたので間に合いそうだ。よかった・・・。

さあ、バスの時間までマルキン醤油を見学だ。しかしもう見学の時間は終わっていて、工場周辺はすっかり閑散としていた。当然だが醤油の匂いがたちこめている。昔からのものだろう、風情のある工場の町並みだ。醤油の匂いに苦情が出ないのだろうか。いや、きっと出ないだろう。この町はマルキン醤油とともにあるはずで、公私ともに生活しているということの想像は難しくない。



予定通りバスは来て、高松行きの最終便の船に乗ることができた。船はどこでも便数が限られている。島に渡るときはいつも慌ただしくなるものだが、これが最初の経験だったと思う。高松に戻ってからは旅の打ち上げのような気分で、ひとり焼き鳥屋でビールと焼き鳥に舌鼓を打ち、カプセルホテルに潜り込んで夜は更けていった。

翌朝、青春18切符を握って東京へと向かった。岡山でちょっと道草をしたせいで、熱海まで来た時はもう夜だった。熱海のホームから花火が上がっているのが見えた。曲がりなりにも四国一周を果たした僕を労ってくれているかのようだった。

僕は、こんなことをして何になるのか、まったく馬鹿だなあと時々思ったりする。だがこの旅を振り返って、これだけは言える。僕にとって四国はもう「見知らぬ土地ではない」のだ。