2006年5月3日水曜日

旅日記-長崎に行きたい1<小田原>

2006年5月3日

登場する地:小田原(神奈川県)、新大阪(大阪府)、広島(広島県)、下関(山口県)

旅ことば:二階から目薬・・・物事が思うようにいかず、もどかしいさま。また、回りくどくて効果が得られないこと。



朝4:50ころ。アパートの玄関を開けた。長崎への旅が始まったのである。今回はあまり時間が取れないため、途中から新幹線を使おうと思っていた。その怠けた?考えのせいか、うまいこと乗れない。横浜から新横浜への乗り換えがよくわからず静岡行き快速に乗って小田原まで行くことになったり、小田原は新幹線の各駅にあたり、なかなか新幹線がホームに止まってくれず30分待ったりして、どうも最初からつまづき気味であった。

それでもやはり新幹線は速い。あっという間に新大阪に着いてしまった。よし、これで最初のつまづきを取り戻すぞ、と意気込んだのに、山陽本線の途中で呉(くれ)線という海沿いの路線に乗り合わせてしまった。後年、同じ過ちをしているのだが、呉は僕を呼んでいるのだろうか。単線のため上下線のすれ違い待ちがあったり、線路に置き石あったとかですれ違うはずの列車がなかなか来なかったりで相当時間を食った。結局広島に着いたのが18:30頃、今日の目的地の下関には23:20頃の到着となった。

下関では居酒屋の「白木屋」で夜を明かした。

ところで小田原までの電車で、座った席の近くに陣取った8名ほどの20代前半の男たちがずいぶん賑やかだった。挙動や言葉遣いからホストの一団のように思われたが、電車の中を店の一部と勘違いしているかのような振る舞いに辟易した。とはいえ、彼らに何も言えない自分も情けない。ちゃんと言える大人になりたい・・・。

旅日記-長崎に行きたい2<本州最西端1>

2006年5月4日

登場する地:下関(山口県)、本州最西端・毘沙ノ鼻(山口県)

旅ことば:一期一会(いちごいちえ)・・・一生に一度会うこと。また一生に一度限りであること。


山陰本線の始発電車に乗り込み、吉見駅を目指した。下関から5,6駅いったところにある。本州最西端が近いのだった。吉見駅は無人駅でちょっと心細い。地図などから判断して本州最西端までは歩くと2,3時間と予想し、バスは待ち時間が30分あったがバスで行くことにした。時間通りバスが来て、揺られること10分、終点の吉母港に到着。実際には、歩いたら1時間ほどであったろう。

そこから最西端までは歩くしかない。本州最西端は毘沙ノ鼻(びしゃのはな)という地名がついている。のどかな空気の中を歩いていると、白の軽ワゴンが1台通り過ぎた。と、バックして近づいてきて、とうとう僕の横に停まった。そして運転席からサングラスのおじさんがどこへ行くのか尋ねてきたのだ。一瞬身を固くするも、毘沙ノ鼻に行くことを告げると、なんと乗せて行ってくれるというのだ。人との関わりが苦手だった僕にとっては信じられないことだった。

しかし、見知らぬ人について行ってはいけないと誰もが子どもの頃に教えられたはずだ。そう簡単に乗り込むはずがない。というのは子どもの頃の話しで、いい歳の僕はあっけなく喜んでホイホイ乗り込んだのであった。秘密の基地には、まるで行く気配もなく、本物の親切なおじさんは展望台近くで降ろしてくれた。さらに帰りに事務所に寄ればいい、とも言ってくれた。

後で地図を見ると、吉母港から毘沙ノ鼻まで結構歩く距離だったので、おじさんの車に乗せてもらって本当に助かった。渡りに舟ならぬ、渡りに軽ワゴンといったところか。

旅日記-長崎に行きたい3<本州最西端2>

2006年5月4日

登場する地:本州最西端・毘沙ノ鼻(山口県)

旅ことば:風月無辺(ふうげつむへん)・・・景色がこの上なく美しいこと。


展望台まで歩いて数十メートル。ついに本州最西端、毘沙ノ鼻に到達した。素晴らしい景色!を想像していたのだが、少し何か物足りなさを感じる景色だった。この感覚はなんだろう。

しばしなだらかな海を眺める。穏やかだ。静かな、海。ここには荒々しさはまるでなかった。土佐とも紀伊とも日本海とも違っていた。もしかしたらたまたま波のない日だったかもしれない。しかしそれが逆に印象に残るものとなった。温かな印象はそのまま山口県の人を想い、さっきのおじさんとも重なった。いや、正直に言えばこの時おじさんのことは考えてもいなかったが、表現としては近いと思う。


じんわりと本州最西端を味わったところで、おじさんが寄っていけと言ってくれた事務所に行ってみる。簡素な白い2階だてくらいの建物だったと思う。どうやらゴミ処理センターらしきようだった。恐る恐るドアを開けて声をかけるとさっきのおじさんがいた。そして最西端訪問証明書なるものを頂いた。まさかこの事務所でそのようなものをもらえるとは思わず、なんとも嬉しかった。さらにお茶と缶コーヒーを頂き、吉母港までまたあの軽ワゴンで送ってもらった。本当にいろいろお世話になった。ありがとうございます!

ちょうど下関行きのバスが来たので乗り込んだ。せっかくなので下関駅まで行かずにちょっと寄り道する。

旅日記-長崎に行きたい4<下関>

2006年5月4日

登場する地:下関(山口県)

旅ことば:送る月日に関守(せきもり)なし・・・年月の過ぎるのは早いものだというたとえ。


下関中心部から少し離れた、唐戸という所で降りた。壇ノ浦にも近い場所だ。

下関は独特な立地条件をもつため、古い時代から要衝として重要な都市だった。壇ノ浦から下関中心部にかけての一帯には歴史的なスポットが多い。レトロな旧英国領事館、日清講和条約記念館、竜宮城のような赤間神社など、駅のほうに向かってひと通り立ち寄る。



歴史スポットを抜けると唐戸市場があり、せっかくなのでフグ、フグ白子、アナゴのにぎりを食べる。もちろん美味しい。次に近代的な海峡タワーの展望台まで上がる。360度のパノラマはいい眺めだ!上から関門海峡を見るだけでも、様々な歴史が駆け巡っていたのだなあと感慨が深くなる。






あれよあれよと下関をかけずり、さて、いよいよ長崎に向けて電車に乗った。

ところで毘沙ノ鼻からの帰りに、バスの中でおじさんから飴をもらった。もちろん見ず知らずのおじさんだ。知り合いらしき年配女性と話しをしていて飴をあげていたのだが、席が近かった僕にもくれたのだった。なんとも粋な計らいではないか。山口県は吉田松陰を排出した県だ。それとなにか関係があるのだろうか。(たぶん単におじさんが世話好きなだけだと思うけど)


旅日記-長崎に行きたい5<長崎線>

2006年5月4日

登場する地:肥前浜(長崎県)、長崎(長崎県)

旅ことば:胡蝶之夢(こちょうのゆめ)・・・現実と夢の区別がつかないこと。また、人の世のはかないことのたとえ。


小倉、博多をすっ飛ばし、とはいっても快速や各駅なので肥前浜というところで一旦乗り換え。肥前浜の駅からすぐのところにあった巨大な鳥居はなんだったのか。乗り換え時間が短いため解明に至らず、駅に戻って長崎線の列車に乗った。うーん、あの鳥居は本当になんだったんだろう。

長崎線は単線らしく、しょっちゅう上下線すれ違い待ちがあった。なんとトンネル内で待ったことも!そんなことなのでかなり時間がかかった。下関は12:35発、長崎には18:30ころ着。実に6時間かかったのだ。

わりと寂れたような車窓が続いていた。ところが突然、それは本当に突然という感じだった。街がひらけた風景に一変したのである。この変化には、雲間から急に光が射すのに似たような衝撃をもたらした。ついに長崎に着いたのである。興奮が疲れたからだを目覚めさせた。

旅日記-長崎に行きたい6<長崎>

2006年5月4日

登場する地:長崎(長崎県)

旅ことば:面壁九年(めんぺきくねん)・・・一つのことに忍耐強く専念すること。また、長い間わき目もふらずに打ち込んで努力すること。


長崎に着いた!
それだけでなんだか嬉しかった。なにしろ大阪からはるばるローカル線で来たのだ。新幹線や飛行機であっという間に着くのとはわけが違う。

ローカル線の旅は、目的地に着くというだけで達成感を味わえるのである。※達成感には個人差があります。

長崎は坂の街だと聞いていた。駅から降りただけでは一見してわからなかった。とりあえず宿を探そう。•••しかし、どこもいっぱいだった•••。仕方なくぶらぶらと当てもなく歩いていると、インターネットカフェを数軒見つけた。今夜はこのうちのどこかだな•••。もはや完全にネットカフェ難民である。

よし、腹ごしらえだ!ということでやっぱりちゃんぽんを食わねば。ちゃんぽんを求めて歩いていると、中華街を見つけた。横浜の中華街と同規模あるいはそれ以上の賑わいで、どの店も行列がたくさん出来ていた。並ぶほどの気力はないので中華街を離れ、ちょっと小洒落たお店を見つけたので入った。オーダーはもちろんちゃんぽん。やっぱり美味しいなあ!比べるのはよろしくないが、昔食べたどこかのちゃんぽんより断然美味しかった。


さあ、ネットカフェ、ネットカフェ。•••と、サウナを見つけてしまった。歩き回った汗を流したい欲求にあっさり引っ張られ、今夜はサウナで夜を明かすことにした。

旅日記-長崎に行きたい7<五島列島>

2006年5月5日

登場する地:長崎(長崎県)

旅ことば:剛毅果断(ごうきかだん)・・・意志が強く決断力があること。


長崎二日目にして行なったことは、五島列島に渡ったことだ。長崎よりも西に海を隔てて島が連なっている。長崎に来る前からどうにもこれらの島々が気になっていた。長崎ターミナルにまずは向かって出航時間などをチェックしに行く。とはいっても五島列島について何もしらないので色々調べることから始めねばならない。

五島列島はその名のとおり大まかに五つの島がある。長崎から一番離れて一番大きな福江島にまずは訪れることにした。高速船は6,000円、フェリーは2,400円。もちろんフェリーで行く。ただその代わりに高速船の3倍以上の3時間ほどかかる。とはいえ、船なんてひと眠りしていればあっという間に着くのでなんの問題もない。

船はゆっくり水を蹴って、あっという間に僕を福江港に降ろした。まだ長崎二日目というのに、はるか日本の西の島に渡ってしまった。我ながら、よく来たもんだ、と思った。

 五島列島支援プロジェクト


旅日記-長崎に行きたい8<五島列島・福江島>

2006年5月5日

登場する地:福江島(長崎県)、久賀島(長崎県)、奈留島(長崎県)、若松島(長崎県)

旅ことば:当機立断(とうきりつだん)・・・機に臨んで、素早く決断すること。


福江島に着いてまずは次の便の確認をせねばならない。何しろ島々間の船は1、2便と少ない(高速船を除く)。福江島は五島列島の一番下にある。そこから上へ上へと渡っていく作戦だ。しかし福江島からすぐ上の久賀(ひさか)島は別の港から出ていることもあり、時間的な問題もあって素通りすることにした。 奈留(なる)島を経由して若松島に行けば、なんちゃってではある三つの島を通ったことにはならないか。いや、そういうことにしよう。

福江港から次の便の出港まで1時間程度しかない。早歩きで福江の町を歩いてまわった。なかなか活気のある小さな商店街を通り抜け、武家屋敷通りというところへ向かう。石垣の続く道路が、武士が往来していた当時を偲ばせる。江戸後期、外国からの侵攻を防ぐために造られたという福江城跡。今は埋めたてられたが石垣は東シナ海に面していて、天然の堀を成していたという。


福江島はキリシタンが多かったことから教会も島の各地に建ち、また他にも見所はたくさんありそうだったが、あっという間に出航の時間が来てしまった。いそいそとターミナルに戻り、若松港行きのフェリーに乗船した。

旅日記-長崎に行きたい9<五島列島・久賀島・奈留島>

2006年5月5日

登場する地:久賀島(長崎県)、奈留島(長崎県)、若松島(長崎県)

旅ことば:千里の道も一歩から・・・どんなに大きな事業でも、まず手近なところから着実に努力を重ねていけば成功するという教え。


フェリーの上から久賀(ひさか)島を左手に見ながら風を受けていると、日に焼けた小学生らしき男の子が「こんにちは」と話しかけてきた。

観光を収入源のひとつにしているところは旅人に気さくに話しかけることがある。先の福江城でも、おそらく中学生だと思うがすれ違いざまにあいさつを受けた。そういう教育を受けているのかもしれない。素晴らしいことである。

声をかけてきた男の子が、どこへ行くんですかと聞いてきた。僕は若松へ行くのだと答えた。僕は案外人見知りのため、初対面の人となかなか打ち解けて話せないタチだ。しかし子どもを相手にそんなことも言っていられない。僕は人見知りを悟られないように少し話をした。

彼からは、奈留(なる)島へ行くのだということ、五島列島は五つの島からなっているからそう呼ばれているということ、今乗っている船は400トンで高速船は1,200トンあることを聞いた。トン数まで知っているなんて詳しいねえと言うと、「好きやもん!」と威勢のいい声が返って来た。なんだか嬉しくなってしまった。

奈留島で彼ともお別れ。少年よ、立派な海の男になってくれ!

船は引き続き若松へ向けて北へ向かう。


旅日記-長崎に行きたい10<五島列島・若松島・中通島>

2006年5月5日

登場する地:若松島•若松港(長崎県)、中通島•奈良尾港(長崎県)

旅ことば:清濁併せ呑む(せいだくあわせのむ)・・・善人でも悪人でも、来る者はすべて受け入れる度量の大きさを表すたとえ。


船は若松港を目指している。この辺りは小さな島々も多く、素晴らしい景観を見せてくれる。もし松尾芭蕉がこの地を訪れたら日本三景のひとつは五島列島になっていたかもしれない。それともいいところが多すぎると逆に難しかったかもしれない。

若松港は少し小さな港だった。今日はもう船はない。橋を渡った隣の島、中通(なかどおり)島の奈良尾港は大きい港町のようだったので、今日はそこで一泊することを考えた。橋を渡るといっても結構な距離はある。バスもあったが、あえて徒歩で行って見ることにした。あとで地図を見ると若松港から奈良尾港まで15kmくらいある。この頃の僕はすべてにおいて距離感が欠けていたようだ。ただまあ、結局途中でバスに乗ることになるのだが•••。

途中にあったバス停まで約1時間、ひたすらに歩き続けた。さすがに疲れた。それでも歩いて良かったと思うことはあった。船の上から引き続いて、見応えのある景観の中をとおってこれたのである。特に若松島から中通島に架かる橋は圧巻だった。歩道がなくて少しビビったが車はほとんどこなかったし、橋の上からは晴れていたのも幸いに見事な景色を見ることができた。車で通ったらあっという間で味気なかったことだろう。


運のいいことにバスは10分ほど待つだけで来てくれた。次はもしかしたら数時間なかったかもしれない。さすがにバスは速い。歩けば1時間以上かかるところを数十分で奈良尾港に連れて行ってくれた。


旅日記-長崎に行きたい11<五島列島・中通島>

2006年5月5日

登場する地:中通島•奈良尾港(長崎県)

旅ことば:天長地久(てんちょうちきゅう)・・・天地が永久に尽きないように、物事がいつまでも変わることなく続くこと。


思ったとおり、奈良尾港は五島列島の中では大きい港町だった。なんでも樹齢650年という樹があるというので真っ先に行って見た。いや、会いに行ったという表現のほうが正しいかもしれない。この頃から、大きな樹になぜか惹かれていた。

その樹はあこう樹で、確かに大きな樹だった。その太い根元はぱっくりと二つに割れ、その下を人がくぐれるようになっていた。それは天然の鳥居を成し、くぐった先には神社が祀られていた。神々しい存在のあこう樹は人家の近くにあり、昔から親しまれてきたことだろう。そして650年経った今でもみずみずしい新芽を出していた。

奈良尾では2度電話をかけた。まずは奈良尾温泉センター。東シナ海を眺められる風呂だそうで、場所を確認するために電話した。次につたや旅館。もう夕方近くなっていて、奈良尾に泊まらねば宿なしとなる。食事は用意できないが宿泊OKをもらうことができた。早速チェックインを済ませ、温泉センターへ行った。

なんと入浴料は200円!安い!おそらく町営の施設だからだろう。こじんまりとした施設内からもそれがうかがえる。年季が入ったガラスがオーシャンビューを遮っていた。運営的にギリギリなのかもしれない。それでも白くかすれたガラスのすき間から東シナ海が眺められたし、旅館のよりは確実に広いであろう湯船を堪能した。(旅館に帰ってから旅館の風呂にも入ったが、やはり普通の風呂だった)

旅に出る前はまさか五島列島で一泊するとは思ってもいなかった。なにしろ五島列島の存在さえあやふやだったのだ。旅ってだからおもしろいのかもしれない。そしてニッポンは広い!

旅日記-長崎に行きたい12<五島列島・中通島・佐世保>

2006年5月6日

登場する地:中通島•奈良尾港(長崎県)、中通島•有川港(長崎県)、佐世保(長崎県)

旅ことば:焦眉の急(しょうびのきゅう)・・・非常に差し迫った危険、問題を抱えていること。


朝から天候が悪かった。朝7時につたや旅館を出たものの、海が荒れていて船の欠航の知らせも聞こえてきていた。中通島より上にも小さい島が二つあったが、時化で行けるかどうかもわからない。五島列島の主要な島は巡ったし、この辺が潮時と本土へ戻ることに決めた。

中通島の上の方にある有川港から佐世保行きの船があるのでバスでそこまで行く。1,400円かかったことからも、大きな島であることを知らされる。有川港に着いたものの、ここでも欠航が相次いでいた。ついに雨も降り出す始末。船が出なければ本土には帰れない。海とともに暮らし、海に左右される島民の生活が思いやられた。

これはもう一泊せざるを得ないか•••、と思っていたところ、佐世保行きのフェリーは出港しているとわかった。急いでチケットの列に並び、整理券とともにチケットを購入することができた。人がごった返していた。乗船時間が来て整理券番号の若い順に呼ばれる。なるほど、2等客室は個室ではなく広間のようになっているため早い者勝ちで良い場所を確保しなければならない。混雑時には整理券が効いてくる。

僕は混雑を避けるためと、自分の分が誰かのスペースになると思って、エントランスの通路に陣取った。時化ているため船は相当揺れた。前後左右のどこかから絶えず重力が襲いかかってくるようだった。僕はずっと立っていて疲れてくると時々しゃがんだりした。不思議なことに船酔いはしなかった。何度も船に乗って慣れたのだろうか。佐世保は近いようで遠かった。

旅日記-長崎に行きたい13<佐世保>

2006年5月6日

登場する地:佐世保(長崎県)

旅ことば:一髪千鈞(いっぱつせんきん)・・・一本の髪の毛で千鈞の重さを引く意から、非常に危険なこと。また、無理なことのたとえ。


船の揺れが穏やかになった。佐世保に到着したのだった。ともかく無事本土へと帰ってこれてほっとした。

佐世保はいい町だった。米軍施設のある町のせいかもしれない。横浜や神戸のような匂いが確かにある。それをいい町だという僕は前世が外人か何かだったのかもしれない。


佐世保では佐世保バーガーを食べようと決めていた。できれば何軒かハシゴしたい。雨が降っていたので地図を見て近いところを探す。

「Big Man」は東京の中野にあるような店だった。店内は狭いのでほとんどの人はテイクアウト。僕もテイクアウトにして他の客と同じように店の向かいの雨をしのげる所で待った。5分、10分、20分•••、ようやく自分の番号が呼ばれた。アーケード商店街のベンチに座って食べる。トリプルバーガーというもので、ベーコンとエッグの組み合わせになっていた。これは美味いに決まっている。


案の定、物足りないのでハシゴする。次は「ロン」という店だ。時間帯なのだろう、店内は比較的空いていたので店内で食べてみることにした。たださっきのテイクアウトメインの店とはだいぶ違って、小さなカワイイ喫茶店になっていた。この店は創業33年(旅の当時)、店の主っぽいおばちゃんと、同年代の男性と女性が立ち働いていた。これだけ長く続けているのはすごいことだ。オーダーしたのはロンバーガーというもの。出てくるまでまた時間がかかったから、佐世保バーガーはどうやら時間をかけてつくるものらしい。ようやく出てきて、こちらもベーコンとエッグ。さっきのと違うのはパンが焼かれていることと、やっぱり店の雰囲気かもしれない。美味しく戴いてお店をあとにした。佐世保バーガーを食べにきたときはまた「ロン」に行くことだろう。(※その後ぼくが行ったお店は閉店し、大和町というところへ出店したらしい。)


僕は佐世保に満足して、長崎に向かうため電車に乗った。

旅日記-長崎に行きたい14<長崎平和記念公園>

2006年5月7日

登場する地:長崎(長崎県)、平和記念公園(長崎県)

旅ことば:一度あることは二度ある・・・あることが一度起きると、後でまた同じようなことが起きるものであるということ。


長崎ではインターネットカフェに泊まり、朝を迎えた。今日まず目指すのは平和記念公園。長崎は路面電車が通っている。数駅さきの松山町という停留所で降り、コンビニのパンで朝食をとった。平和記念公園とは、原爆が落ちたところである。

その前に、こぼれ話をしたい。この朝は両替に運がなかった。朝、コインランドリーで洗濯をしたが、手持ちの100円玉がなく、一番近い自販機で缶コーヒーを買って千円札をくずそうとした。ところが釣銭切れだったので次に近いところでくずそうとした。しかし釣銭は100円玉は1枚のみであとは10円玉と50円玉ばかり落ちてきた。そんな自販機ばかりが近くにあり、ようやく洗濯するだけの100円玉を集めたときはペットボトルのお茶1本、缶コーヒー2本を手にしていた。

コインランドリーで洗濯をする時は、近くの自販機に充分注意したほうがいい。手書きの日記に恨めたらしく書かれていたので、こぼれ話としてここに載せておく。この時の僕の気持ちが浄化されることを祈りつつ…。(全然思いつめた内容ではないけれど)

旅日記-長崎に行きたい15<長崎平和記念公園2>

2006年5月7日

登場する地:平和記念公園(長崎県)

旅ことば:悪因悪果(あくいんあっか)・・・悪い行為には必ず悪い結果や報いがあるということ。


長崎は広島と同様、原爆を落とされた都市だ。上空500mで炸裂した原子爆弾は、半径2km以上の範囲を焦土と化した。その落ちたところの周辺が平和記念公園になっている。長崎に来たからには日本人として寄らねばならない場所だ。

またその前にとなるが、この旅は手記による日記を元にしている。原爆については神経質にならざるを得ない内容になるが、当時感じたところの手記に近い内容で書きたいと思っている。そのため表現が不適切な部分があるかもしれないがご容赦願いたい。

原爆公園と名のついた公園が、まさに上空で原爆が炸裂したところだ。今はこざっぱりとした広場になっている。しかしその一角には焼け残った神社の石塔や天主堂の壁の一部、瓦や割れた茶碗が混じった地層などがあった。その瞬間の温度がこのような表現で今に伝えている。白に黒いまだらの猫がどこからか一匹出てきて、のんびりとあくびをしていた。むろん今は曇りがちな空からの薄日しか石塔らには注がれていない。




すぐ近くには原爆資料館がある。まずは追悼記念館に入る。ここは入場料はない。原爆で亡くなった人たちを偲んで建てられたものらしく、遺影や手記、平和へのメッセージなどを見てまわる。この建物は水を使ったモチーフで構成されていて、至る所に水が流れている。被爆した人々は水を求めて苦しんだ。口々に水をくれと言っていたという。たった一杯でも飲めたら、これほどおいしい水はなかったに違いない。ところで誰も通っていなかった所に水が滴ったような跡があった。ちょっと不思議に思ったが、きっと他の客か警備員の誰かが滴らせたのだろう。きっと•••。

外に出ると、朝からの曇り空が相変わらず続いていた。まるで被爆した人たちが水を求めて雨を待っているかのように。さっきの原爆公園が眼下に見える。資料館と記念館は公園よりちょっと上にあるためだ。僕は上空500m付近を見上げた。B29が飛んで来た。はるか上空で原子爆弾「ファットマン」を投下、黒い飛来物が落ちてきた。そして、炸裂。僕は一瞬で溶け、跡形もなくなった。痛いという暇もなかった。あぁ、きっとこんなふうに一瞬だった人たちはまだ幸せだったのではなかろうか。そんなことを思ったのは、その後に後遺症で苦しむ人たちが多かったし、今でもそうしたことが残っているからだ。だけど本当はこんなことを考えることさえいけないのかもしれない。



原爆資料館へと入ってみる。入場口では時計の振り子の音がずっと鳴ってる。原爆が落ちた午前11時2分を表しているらしい。受付のスタッフは慣れるまで大変じゃないだろうか。資料館ではいろいろと身に刺さる展示を見させられた。黒く炭化してしまった遺体の写真。焼け残った生活用品。それらには人間に灰をかけて無理やり火を消したような無理矢理さがあった。男の子が難しい説明を前にしてずっと見入っていた。おばあちゃんと思われる女性が言う。「小さなケンカからこんな殺し合いになったんだよ。だからケンカしちゃダメだよ。」なんて素晴らしい説明だろう。本当にその通りだ。

外は相変わらずの曇り空。平和記念公園に足を向けた。外人の姿も多くなっている。彼らはヒロシマ•ナガサキをどう思うのだろう。アメリカ人であれば誇らしい気持ちを抱くのだろうか。にっくき日本をやっつけたと•••。しかし実際には女性と子どもが多く亡くなった。そんなことは戦争中は考えていられないことかもしれないが、平和を取り戻した今こそ、大勢の人が死んだ事実をちゃんと受け止めてもらいたいと願う。今後同じ過ちを双方で繰り返さないように。

シンボルの像の変わったポーズには意味がある。天に向けた右手は原爆が落ちてきた空を指し、横に拡げた左手は平かなる平和を、被害にあった人々を助けるために動くことを表す左足、瞑想を表す右足。この像もそうだがたくさんのものが平和記念公園に寄贈されている。皆、平和を願っている。




その後、浦上天主堂に行ってみる。カトリックの教会で、マリア像が最も崇められている。ただ、僕にはキリストのことはよくわからない。修復•維持のための100円寄附箱があったので寄附した。

ルートの最後は被爆したクスノキと半分の鳥居。すごく大きなクスノキが2本あり、被爆していながら幹回り8mという大樹だ。よく生き残ったなあと思う。半分残った鳥居というには、その通り半分だけが吹き飛ばされた石造りの鳥居だ。民家のすぐ近くにあり、この近辺の人たちにとっては日常の風景となっているのだろう。


戦争も原爆も、次第に記憶が薄められていく。人間は忘れる生き物だ。だけど、忘れてはいけないこともやっぱりある。人間は食中毒などを起こす食べ物は語り継いで忘れないようにしてきた。それと同じように、生きるために、忘れてはいけないことがある。


旅日記-長崎に行きたい16<長崎市内・龍馬通り>

2006年5月7日

登場する地:長崎市内(長崎県)

旅ことば:春宵一刻値千金(しゅんしょういっこくあたいせんきん)・・・春の宵は趣深く、そのひとときの時間は千金にも値するということ。


長崎の路面電車はいい。割と遠くまで走っているし街の雰囲気にも合っている。そして何より料金がどこまで乗っても100円というのがいい(その後120円になったようだ)。路面電車で正覚寺という終点まで行ってみる。さあ、長崎市内の散策だ。

長崎の遊郭といえば丸山町。この遊郭を舞台にしたなかにし礼氏の小説『長崎ぶらぶら節』はこの旅の後に読んだが、とても素晴らしい小説なので是非読んでみてもらいたい。少し脱線したが丸山町は今は当時の隆盛の面影を見ることは出来ない。ただ、趣ある石段や路地が往時を偲ばせる。タイムスリップして盛時の丸山を見てみたいと思った。


さて、龍馬像といえば高知県の桂浜だが、ここ長崎にもあるらしいので行ってみることに。しかしそれはかなりの高台にあり、気合を入れて石段を登り始める。龍馬通りという道で、高い場所にあった海援隊の事務所から仕事で海に降りるときに使った道のようだ。途中のビュースポット(龍馬のブーツ(つくりもの)がある場所)からの眺めは素晴らしかった。その後道に迷ってしまったが、どうにか勘をきかせて龍馬像にたどり着くことができた。うーむ、桂浜のほうがいいかもしれない。ただし見晴らしというか、高台にいるという爽快感は桂浜にはなく、気分的には決して悪くない。



この頃まだ司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』を読んでいなかったこともあり、まだまだ龍馬への関心が少なく、龍馬像を見てもそれほどの感慨が湧くわけでもなかった。そのせいもあるだろう、帰りは一気に駆け下っていった。

この散策中に老舗の小さな和菓子屋さんでかりんとうを買って食べた。そのかりんとうがもの凄く硬く、噛み砕くのに苦労した記憶がある。あのかりんとうはいったい何という種類だったのだろうか。硬いけれど、なんだかクセになるかりんとうで、印象に残っている。

旅日記-長崎に行きたい17<長崎市内・グラバー園・孔子廟・オランダ坂>

2006年5月7日

登場する地:長崎市内・グラバー園・孔子廟・オランダ坂(長崎県)

旅ことば:兎の登り坂・・・得意分野で実力を発揮すること。また、条件に恵まれて物事が調子よく進むこと。


また路面電車に乗り込む。次は石橋という終点まで行った。グラバー園というのがあるらしい。「らしい」というのは、僕の旅は基本的に行き当たりばったり、当地での判断・決断に委ねているためにこのような表現になる。グラバーという人物について、僕は知識としてなにひとつ持っていなかった。

グラバーは貿易商として長崎に来て、幕末は維新に乗じて武器弾薬の商売で活躍した商人。キリンビール創始の育ての親というのは知らない人も多いだろう。この辺は興味のある人に譲るとして、この時の僕には、単にすごい金持ちの外国人がここに住んでいた、ということしか分からなかった。

グラバー園は高台にあるため、階段かスカイエレベーターというのを使って上まであがる。なかなかの高さにあり、長崎の港を見下ろす眺めはやはり素晴らしい。僕が坂のある町を好むようになったのは、長崎を訪れてからのような気がする。それほど長崎はどこを切り取っても絵になる町だ。


グラバー園を後にし、次はオランダ坂まで行ってみた。テレビでも見たことのある坂であり、日本の西端にある町の坂であり、自分の足で実際に歩くというのは感慨深いものがある。石畳の急な坂をのぼった途中に孔子廟というのがあったので寄ってみる。

孔子廟。なぜこの長崎にあるのか、なんためにあるのか、など分からないことだらけであった。もちろん当時の自分の知識レベルが大きく関わっていたことは言うまでもない。白い像がやたらと立ち並ぶ。やっぱりよく分からない。その中で面白かったのは、地震計測器の展示品だった。甕の周囲に六体の龍が口をあけている。地震があると龍の口から玉が出てきて、その玉の具合によって地震の大きさなどを測るという。科学のテクノロジーがない時代にはいろいろなアイデアを駆使してきたのだ。



オランダ坂に戻り、長崎駅方面に向かった。長崎は、一日でまわれるようなところではない。