2004年9月18日土曜日

旅日記-紀伊半島・本州最南端に行きたい1


2004年9月18日


天橋立の次に旅をしたのは、なんとその3年後。
あれだけ決定的な瞬間云々と言ったわりには間があいた。

紀伊半島は本当に全くの未知で、それだけに魅惑を感じていた。
大変な旅になりそうな予感を抱えつつ、ともかく本州最南端は訪れようと目標を定めてみた。



人は、目標があると前へ進めるのである。




ということで、2004年9月に歴訪した紀伊半島巡りの旅日記を
これからぼちぼち書いていくことにする。

旅日記-紀伊半島・本州最南端に行きたい2<東海道>


2004年9月18日

登場する地:池袋(東京都)、横浜(神奈川県)、小田原(神奈川県)


11時頃池袋を出発した。(当時池袋近辺に住んでいた。)
時間的に割と遅い旅立ちである。
よく分からないまま、まずは横浜に向かってみた。
東海道線に乗るにあたって格好の出発地に思えたからだ。

渋谷からは東横線を使った。ほんのわずかだがJRより安かったためである。そして横浜からは小田原まで相鉄線に乗った。これもJRよりわずかに安かったのである。

この当時は、とにかくわずかでも安い方を選んで先を目指していた。旅はやはりお金がかかるものである。それをいかに抑えるかがひとつのモチベーションになっていた。

いま(2013年)なら、なんて馬鹿なことを思っていたんだろうと言える。電車賃は目的地まで買ったほうが安くつくのだ。例えばJRだと100キロを越えると途中下車をすることだってできる上に乗車券は断然安い。

僕はそんなことも知らず、細切れに切符を買い、乗り過ごしたら電車の中で乗り越し代金を払った。その乗車方法は積み立て貯金のように料金がかさんでゆくだけで、しかも貯金とは違い、ただ浪費するだけだ。

ただし言い訳を言えば、いつ目的地が変更されてもいいように、という考えがあった。当てもなき旅に憧れていたこともあったのだろう。

ともかくも、こうしてまだ旅慣れていなかった僕は西へ向けて進んだ。

旅日記-紀伊半島・本州最南端に行きたい3<東海道>


2004年9月18日

登場する地:浜松(静岡県)、豊橋(愛知県)、名古屋(愛知県)

東海道線はやっぱり遠い。駅間が長く、快速の類いがなく、各駅停車しかないためと思われる。東海道線をゆくと新幹線の有り難みがよくわかる。

それにしても昔の人はよく歩いたなあと思う。今もあえて歩いてゆく人がいるみたいだが、僕にはとてもそんなことは出来ない。せめて各駅列車でゆくことで往時を偲ぶのがやっとだ。

浜松まで来ると快速が走り始めるので気分的にはひらけてくる。さらに豊橋まで来れば名古屋までもぐっと近い。

ちなみに列車に乗っている間は太宰治の小説を読んで過ごした。ローカル線の旅は日常と比べられないほどに時間を取ることが出来る。この時間を利用して本を読み進める。時間を有効活用する、これもローカル線ならではである。

さて、名古屋からは亀山を経由しつつ紀勢本線へと入る。


旅日記-紀伊半島・本州最南端に行きたい4<紀勢本線>


2004年9月18日

登場する地:亀山(三重県)

亀山駅からJR紀勢本線に乗ってみた。もちろんこの線に乗るのは初めてだった。

すでに日は暮れてあたりは暗い。1両だけの車両が車体を細かく揺らせながら数人しかいない乗客を運ぶ。昼間に乗れば違ったかもしれないが、夜に乗ったことによって紀勢本線はずいぶん寂しい印象を僕に与えてしまった。

車内の明かりは暗く、田舎の家の倉庫にでも付いていそうな弱々しい光しか放っていない。座席はずいぶん古めかしい緑色で、年季のせいか蒸し暑さのせいか、湿っぽくて心地よいとはとても言えない。このままどこか妖怪が住む町へ連れていかれるのではないかと、半ば本気で思えるほどであった。

いま(2013年)はどうなっているだろうかと、時々思い出させるくらいに強く印象に残っている。津(三重県庁)を目指して真っ暗な夜のレールを進んでいる。

旅日記-紀伊半島・本州最南端に行きたい5<津>


2004年9月18日

登場する地:津(三重県)

紀伊半島の旅のことを書いている。しかしなかなか書き進まない。時系列でいうとまだ初日の夜である。紀伊半島巡りはかなり未知な旅だったから、その時の想いがそのまま反映しているのだろうか。

とにかく夜も深まってようやく三重県庁のある津に着いた。もちろん宿の予約などはない。

夜の津は心細かった。駅周辺には賑やかなネオン街はなく、駅の下をくぐる地下通路からストリートミュージシャンの歌声が聴こえるだけだ。

実はこの旅で僕はギターを持ってきていた。早速彼らと一緒に歌ってみた。なんて出来るはずもない。俄かの俄かミュージシャンの僕はまるで勇気を持ち合わせてなく、音ひとつ打ち出すことも出来ず、ましてそのミュージシャンに声をかけることさえ出来ない。ただ空しく遠くから聴くだけだった。いま思っても情けない限りである。

銭湯を見つけ、残暑の汗を流してから、駅近くのビルの下や、蚊がうるさくなったためどこかのビル内に不法で入り込み仮眠してみた(ごめんなさい!)。うとうとと時を過ごして朝を迎えた。

津城(津観光協会HPより)

旅日記-紀伊半島・本州最南端に行きたい6<伊勢>


2004年9月19日

登場する地:伊勢(三重県)

津から南へ向かって和歌山方面へ行く場合、伊勢は通らない。しかしせっかくここまで来たのだからと、東の方角に吸い寄せられるようにして伊勢に寄り道してみた。

伊勢には日本人なら必ず耳にする伊勢神宮がある。内宮(ないくう)と外宮(げくう)と二つあるのだが、こういうことはやはり行ってみないと分からないものだ。そしてその二つは割と離れていることも、実際に行かないと実感として湧いてこない。

話は前後してしまうが、外宮のあと内宮に行ってみたが、バス代を節約するため歩いて向かった。外宮から内宮まで徒歩50分とある。それなら大丈夫だろうとひたすら歩いた記憶がある。その頃は変なところでいかに節約しようと躍起になっていたかがわかる。

ちなみに僕の足では徒歩10分で1㎞である。なので徒歩50分では5㎞となるが、この時もやはりその通りだった。

旅日記-紀伊半島・本州最南端に行きたい7<伊勢>


2004年9月19日

登場する地:伊勢(三重県)

外宮(げくう)の印象はあまり残っていない。そういう意味でもおそらく内宮(ないくう)が伊勢神宮を象徴しているのだと思う。(未だにはっきりせず、これを書いていて申し訳ないが)

内宮にやっと着いたときも、さほどの印象を持たなかった。それは、神社についての知識がまるでなかったからだ。この伊勢神宮参りがあったことがその後の考え方にも影響した。「これではいけない。日本の寺社神仏についてもっと知らなければ日本を知ったことにはならない」と。

それでも樹齢数百年の杉の大木が並び、参拝者の喧騒を些末にしてしまうほどの厳かな空気を漂わせている。大きな鳥居も押し潰されそうな重量感で空を支えていた。

ちなみに、この時の僕は参拝の仕方もわからずにいる。伊勢神宮は「二礼二拍手一拝」で、通常の神社と同じ形式になっている。これが出雲では違うなどということももちろん知る由もない。


旅日記-紀伊半島・本州最南端に行きたい8<伊勢>


2004年9月19日

登場する地:伊勢(三重県)

伊勢神宮参拝のあと、観光案内所でユースホステルを見つけ、電話で予約してみた。なんとかその日は屋根の下で眠ることが出来た。

この頃は本当に何かに怯えていて、人間不信かと思えるほどにおどおどしていたように思う。未知の土地へ向かうこともあったろうが、出来るだけ人と話さないようにしていた気配がある。自分のことながら人間、というよりは社会に生きる人間として不合格者と言えた時期だったかもしれない。

この日の夜は、念のために持っておいたクラッカーしか食べずに夕食も取らず(人とは話したくもないために)布団に入ってしまった。

ところで、二見浦という名の知れた海岸がある。そこには夫婦岩という二対の岩が海から突き出ていてしめ縄がかけられている。日の出が重なるときには神々しいという。ところがどうしたことか僕の旅日記ノートには書かれていない。そのため唐突ではあるがここに書き記しておいた。


夫婦岩(伊勢市観光協会HPより)

旅日記-紀伊半島・本州最南端に行きたい9<太江寺>


2004年9月20日

登場する地:松下(三重県)、多気(三重県)、尾鷲(三重県)

この日宿泊したユースホステルはお寺だった。旅日記ノートを見るとそのお寺は真言宗潮音山太江寺という。この頃は何も知らなかったが紀伊半島、特に熊野は真言宗の聖地のようなものだから、太江寺が真言宗であるのは普通とも言える。そして宗派をメモしていたのは先に伊勢神宮に行ったからに他ならない。

朝、パンフレットを見ながら松下駅に向かってみた。歩いて2、30分のように描かれた地図を見ていたが、ゆうに1時間以上の時間がかかった。簡略化された地図の怖さを存分に思い知った。特に田舎では見誤ると大変なことになると、肌身でもって感じた。

松下駅はバス停のような小さな無人駅だった。しかも次の列車まで1時間待ち。誰もいないホームでまだ湿った洗濯物を乾かすほどのゆとりがあった。さらに乗り換えの多気駅に着いたときには2時間半待ち・・・。更にはその後の紀勢本線途中の尾鷲駅で30分の特急通過待ち・・・。

この「待つ」ということが都会ではあまりない。「待つ」以外にどうにも出来ないことが人生では幾つもある。この「待つ」ことが出来ないために失敗してしまった人もいるのではないだろうか。待つときには待ち、機をとらえて動く。これが出来ればもう少し能力のある人間のように見られるのではないかと思ったりしたが、どうだろうか。


旅日記-紀伊半島・本州最南端に行きたい10<新宮>


2004年9月20日

登場する地:新宮(和歌山県)

紀伊半島を巡る旅のことを書いている。紀伊半島に行くからには世界遺産の熊野古道を踏んで行かねばならないだろう。

その拠点として新宮市を目指した。日本地図を見たとき、比較的大きな町のように思え、かろうじて夜露をしのげるだろうと期待したのだ。新宮は伊勢から実に3時間を越える旅程であった。

さて新宮へいざ着いて見ると、先の予想をはるかに良く裏切った、とても大きな町であった。多くの人が往来し、夜露どころか宿泊施設はたくさんあり、ショッピングにも事欠くことはない。

僕は日本というものを何も知らなかったのだとつくづく思い知らされた。そして新宮ほか紀伊半島の人々・土地・文化に対してなんと失礼極まりない認識でいたのだろうと恥じてしまった。それは同時に日本全国に対してもそうであるといえた。

新宮あるいは熊野は、日本において古くから拓けた都市だったのだ。船により中央の京・大阪や九州・四国と行き来を繁くし、更には高野山の影響も大きく神聖な土地として人々の往来が盛んだった。

そのことは僕が旅などというものを思い立たなければ、知ったとしても薄ぼんやりとしか知り得なかったであろうし、積極的に知ろうともしなかったに違いない。実際にその土地へ赴き、肌身で感じることの威力の大きさをこの時ほど感じたことはなかった。

新宮に着いてすぐ、1泊4千円のビジネスホテルを見つけ、2日分の代金を支払った。以後、、ここを拠点にいろいろ動くことが出来た。チェックイン後、日暮れが近い空から雨が落ちてきて地面をしばらく濡らしたが、ほどなくあがった。


旅日記-紀伊半島・本州最南端に行きたい11<新宮>


2004 年9月21日

登場する地:新宮(和歌山県)


新宮には不思議な川がある。熊野川である。山深い森から遥かに流れ来て新宮で熊野灘に注ぐ。

僕はこの新宮市を通る熊野川の一部分を見たにすぎないが、なんとも美しいターコイズブルーを湛えていたのが強く印象に残っている。思わず広い河原へ降り、水際までいって手を浸してみた。丸く平べったい石が河原から水の中までびっしりと敷き詰められ、水の美しさがより鮮明さを増していた。なんだか黄泉の世界に降りたってしまったような気になった。

熊野川の汀の崖上には新宮城跡がある。そこから見ると海から荷物を載せて川を上ってくる船を監視している気分になる。当然、殿様がいた頃にはそういう役割の者が立っていただろう。

日本は長い間戦国の世を過ごした。城を中心にして町がつくられた場合が多いはずだ。この頃から城を訪れてその町を想うという楽しみが僕の身に付いていったと思われる。

ちなみに、この稿の前後で頻繁に登場する「新宮」と「熊野」について、「新宮」といえば新宮市のことを指し、「熊野」といえば新宮市を含めた広い範囲、いわば熊野地域を指すことを言っておく。

新宮城跡(新宮市観光協会HPより)

旅日記-紀伊半島・本州最南端に行きたい12<神倉神社>


2004年9月21日

登場する地:新宮(和歌山県)


新宮市には当然歴史的な寺社仏閣が多い。中でも有名なのが那智速玉(なちはやたま)神社と神倉神社であろう。

熊野には那智三山があり、そのうちの速玉神社が新宮市内にあって他の神社より手軽に行ける。結論から言って、三のうち行ってみたのは二つまで。那智本宮は山の中をかなり歩かねばならず、今回の旅では日程的な理由でこの一山だけ割愛した。

ともあれ、強烈に印象に残ったのは那智三山の速玉神社ではなく神倉神社の方だった。

小高い丘のような小山が市内にあり、そこに石段が数百段続く。100メートルにも満たない小山だから八百段くらいではなかろうか。この石段がくせもので、一定の大きさをしておらず、足をのせる幅も狭い。傾斜も急で、なんだか岩に生えた硬いキノコ群を踏んで登っているかのようだ。上りはまだ良いが下りがかなり怖く、ご婦人などは座りながら下りるといった具合だった。

頂上には誰が運んだか、まさしく神がかりな大きな岩が鎮座していた。小さい2階建ての家くらいはあろう。これを神とせずに何を神とするだろうか。景色も新宮市一帯を見下ろすことができ、神の産物をまざまざと味わわせられた。

この神倉神社、毎年2月には松明を持った二千人の男たちが石段をかけ下りるという。実際に下りた者の感覚として、かけ下りるというのは有り得なく、いつかこの目でその祭りを見たいと心の内を焦がし続けている。

神倉神社(新宮市観光協会HPより)

旅日記-紀伊半島・本州最南端に行きたい13<高野坂>


2004年9月21日

登場する地:高野坂(和歌山県)


新宮市には那智三山の速玉神社、大岩の神倉神社、そして高野坂がある。高野坂は熊野古道と並び古くからある道だ。

神倉神社のある街の中心から7、8㎞ほど離れた海岸沿いにある。普通はスかタクシーで行くのだろうが、僕はもちろん歩いて行ってみることにした。

歩道のない国道などを歩いたが、今思えば高野坂よりこの国道をゆく道の方が断然厳しかった。なぜなら自然に囲まれた高野坂の方が変化に富んでいたが、人工的な道はどうも単調なもので、それが1時間以上続いたからだろう、疲れが激しかった。

さて苦労して高野坂入口に着き、しぶきをあげる岩肌の海岸を横目に道へ入ってみた。


高野坂入り口(新宮市観光協会HPより)

旅日記-紀伊半島・本州最南端に行きたい14<高野坂>


2004年9月21日

登場する地:高野坂(三重県)


杉の木が林立して日の光もあまり届かない。道幅はそれほど広くない。じめじめして蒸し暑く、立ち止まるとすぐに蚊が襲ってくる。

さすがいにしえの道。快適なものとは言えない。しかし千年も前に人はここを通っていたのだと想うと畏れ多くなる。ふと日の光が射し込む場所に立った。高野坂に入って初めて見たまともな太陽光はなんとも神々しかった。

しかし、ゆっくり立ち止まっていられない。すぐに蚊に2,3箇所刺されてしまった。これ以上刺されぬように体を動かすには歩くしかない。また先へ進んだ。

一体どのくらい歩いたか、なだらかに登りが続き、だんだん足も重くなってきたとき、ぱあっと急に視界が開けるところに出た。杉木立から抜け、広々とした草原に出たのだ。太陽の光は遮るものもなく降り注ぎ、彼岸花があちこちで咲き乱れ、カラスアゲハが花の周りを優雅に舞っていた。

地獄から仏、というような心地だった。昔の人ももしかしたら同じ思いを持ったんじゃないだろうか。そして信仰というのはこういうところから出てくるのかもしれないと思ったりした。なんにしても太陽というのは本当に有難い存在なのだ。

ちなみに朝の杉木立には日も入るらしい。


旅日記-紀伊半島・本州最南端に行きたい15<那智(なち)>


2004 年9月21日

登場する地:高野坂(和歌山県)、那智(和歌山県)


現在の高野坂は1.5㎞ほどしかないが、主要路として使われていた当時はずっと南の那智大社まで続いていた。

今はアスファルトの人工的道路に変わっているため、もう面影はない。よって電車で移動する。次の目的地は那智。那智大社や那智の滝があるところだ。

電車で20分ほど揺られ、那智に着く。駅を降りたら何か案内があるだろうと思ったが、目立った案内がない。いにしえの人にならって歩いて行くぞと意気込んでいたが、どっちへ歩いていけばいいか分からない。那智の滝までは駅からかなり歩くはずで、間違った方向へ行くと取り返しのつかないことになる。

結局のところ、徒歩で行こうという人に対してはケアされていないらしい。道路標識を手掛かりに道は分かったが、途中のほとんどに歩道がなかった。バスなどの大型車の往来も激しく、歩行者にとっては危険な道であった。

まあ確かに滝までは1時間以上も歩くような距離だから大抵の人はバスなどを使うだろう。僕だって帰りはさすがにバスを使った。しかしここは熊野の那智である。歩いて巡礼する人も多いはずだ。

行政には是非とも、幅が狭くてもいいから歩道をつけてもらいたいものだ。(2013年1月はどうなっているか分からない。歩道が全面的についたらどなたかご一報下さい)

JR那智駅(Wikipediaより)
駅舎の隣に交流センターがあったが、休みか何かだったと思う。駅周辺には本当に人が少なかった。。それもそのはずで、那智周辺は2つ先のJR紀伊勝浦駅に観光拠点施設などが集約されているらしい。このときは全く知らず、那智の滝に一番近い駅として利用したのだった。

旅日記-紀伊半島・本州最南端に行きたい16<那智(なち)>


2004年9月21日

登場する地:大門坂(和歌山県)、那智大社(和歌山県)、那智の滝(和歌山県)


那智周辺を地図で見ると、那智の滝や那智大社は10㎞ほど内陸部にある。どうりで行けども行けども着かなかったわけだ。およそ2時間の旅程であった。今思えばよく歩いたものだ。

ようやく目的地付近の大門坂に到着したのは、もう午後の4時前後だったと思う。大門坂は緩やかな石段と両脇に樹齢800年ほどの杉並木が数百メートル続く道である。日が陰り始めていた。

苔むす石段を登っていると、前方にヒールを履いた女性がひとり見えてきた。ヒールのため苦労して石段を登っている。旅に出会いはつきものである。僕はその女性に声をかけ、背中に彼女を背負って一緒に大門坂を登っていった。

・・・わけはなく、その女性を普通に追い越して僕は先を急いだ。日も暮れかけて色々見て回れなくなる可能性もあったし、そもそも見知らぬ女性に声をかけれるほど僕は人間が出来ていない・・・。

杉並木の大門坂を過ぎ、那智大社に上り着いて振り返ってみたら、残照に輝く緑の山肌が向かいに見えた。美しいと思った。視線を移すと那智の滝も見える。改めて熊野まで来たんだという感慨が深く沸いた。

那智大社はほどほどに見て回った後、那智の滝の滝壺近くまでいってみた。細く白い滝だった。落ち口を見上げると注連縄が張ってあり、神聖さを物語っていた。ずっと見ていると、白い竜が天に昇っているようにも見えた。

バスはあっという間に駅に着く。見覚えのある、歩いて辿った道が窓の外に見えては過ぎた。苦労して歩くことに何の意味があるのだろう。バスに揺られながらふとそんなことを思った。でも今(2013年1月)思い返せば、歩いていって良かったと思う。その時のつらさが今浄化して良いイメージになり記憶に刻まれている。


つらい思い出の方が年月をかけて浄化されたとき何にも得難い記憶の財産になる。


この日で旅の目的は半分果たした。普段一人では居酒屋に行かないが、その夜は新宮駅付近の焼き鳥屋さんに入ってみた。焼き鳥を食べ、一杯だけビールジョッキをあけた。

旅日記-紀伊半島・本州最南端に行きたい17<潮岬>

2004年9月22日

登場する地:串本(和歌山県)、潮岬(和歌山県)




潮岬(しおのみさき)をご存知だろうか。
和歌山県は串本町にある、本州の最南端である。
そして台風が来るとお天気ニュースでよく登場する場所である。
中学、高校と地図の上でしか見たことのない地に、ついに、来たのだ。

串本駅を降りて地図を入手し、潮岬の位置を確認してみる。
ここでもやっぱりバス代を節約して徒歩で向かおうと決めていた。
しかし簡略化された地図を見たのがまずかった。
この後、10キロメートルの行軍が待っていたのである。
さらに、この日は灼熱の太陽が頭上にあった。
あまりに暑くて落ちていた傘を日傘代わりにしてみた。案外熱さをしのぐことができた。
まだか、まだか、あのカーブを曲がれば着くか、体力がどんどんなくなっていった。
時折海から吹く風に遥かな太平洋を感じることがせめてもの慰めだった。

そして、ついに・・・。

本州最南端に辿り着いたのだった。
あぁ・・・、なんという達成感だろう・・・。
遊歩道と一緒に設置されている展望スペースからは、太平洋の黒潮がゆったりときらめいているのが見通せた。
眩しさに目を細めながら、しばらく余韻に浸った。

見ず知らずのおじさんが話しかけてきた。
北海道の宗谷岬からマイカーでやってきたそうだ。全国各地の岬を巡っているという。
世の中すごい人がいるものだなあと思った。
うろ覚えだが、このおじさんがこんなことを言っていたと思う。

若いうちにいろいろ行っておいたほうがいいよ。

僕に旅の師がいるとすれば、この一期一会のおじさんかもしれない。
これから、僕はいろいろ行きます。(そして実際にいろいろ行ったし、今も行っている。)

旅日記-紀伊半島・本州最南端に行きたい18<潮岬>


2004年9月22日

登場する地:潮岬(和歌山県)


串本駅にも徒歩で戻ってみることにした。
でも帰りの方がなぜか元気になっていた。
潮岬は小島のような格好になっていて、島の周りを囲むように主要道路が走る。
列車の時間が気になっていたので、島の中央部を割くようにして近道を行ってみた。
民家の間を抜け、海が見える道路にぶつかり、そのまま海沿いをゆき、ようやく駅近くの市街地へ入りかけたとき、
この炎天下で徒歩行軍をした代償がやってきた。

熱中症。

手の小指がしびれ始めたのだ。
最初は脳梗塞ではないかと少しあせった。この頃は熱中症のことをあまり知らなかった。
ともかく水分を摂ろうと、運よく見つけた自営のコンビニでポカリスウェットを購入
駅に向かいながら水分摂取してみたら、なんと見事に回復したのだった。やはり水分が不足していたのだ。
このときの体験が後にずいぶんと役に立った。
まさに「体で知る」だ。

とはいえ熱中症になることを勧めているわけではないので誤解の無いように。
汗をかき、体の水分が不足すれば誰にでも熱中症になることを伝えておきたい。

そして列車にも見事に駆け込みで間に合った。
ただ、駆け込み乗車はやめよう。 ←何しろ本数が少ないのでお許しを。

旅日記-紀伊半島・本州最南端に行きたい19<こぼれ話>

2004年9月22日

登場する地:紀伊田辺(和歌山県)


紀伊山地は雨が多い。
西からの湿った風が紀伊山地にぶつかることで雨雲ができやすいからだ。

その雨雲を見ることができた。
潮岬を後にして紀伊田辺でぶらぶらさまよっていたときだったと思う。
道を歩いている途中でふと那智のある熊野方面を振り返って見てみた。
すると灰色の積乱雲がもくもくと陸地にかかっているではないか。
それはまるで昔話に出てくるような雲であった。

あぁ、日本って面白いなあ。

そして僕は再び紀伊半島で歩みを進めた。

旅日記-紀伊半島・本州最南端に行きたい20<和歌山>

2004年9月22日


登場する地:和歌山(和歌山県)


炎天下の潮岬を強行したその日のうちに和歌山市に入った。
和歌山駅を降りると、広々としたきれいな街並みがあった。
再開発によるものであることは紛れもない。
それでも少し裏道に入れば昔の面影を感じる。
既に日がどっぷりと暮れた和歌山を散策してみる。
偶然見つけた銭湯に入り汗を流した。

この日はついに宿に泊まることはなかった。
ともかく歩き回り、夜の和歌山城なんかも立ち寄ってみたりした。
そして駅に戻り旅日記を書くなどして夜を明かした。

時間が経てば、やがて朝は来る。

「時間」というものの不思議さを、肌をたたかれるようにして思い知ったのはこの頃だったかもしれない。
しかし実際には眠くてどうしようもなかった。

朝になったら紀三井寺(きみいでら)に行く。

旅日記-紀伊半島・本州最南端に行きたい21<和歌山>

2004年9月23日

登場する地:紀三井寺(和歌山県)


紀三井寺に行ってみた。
和歌山から2つ離れた駅まで180円。
和歌山を代表する観光スポットだ。がしかし、駅を降りても案内も何も見当たらなかった。
あったのかもしれないが、まったく気づかなかった(ということは案内は無いに等しい)。
どっちへ行けばいいんだ!?
仕方なく、「なんとなくこっちっぽいな」と勘だけで歩いてみる。
そしたら、見つけた。

でも少し違った。
紀三井寺には表玄関に当たる長い長い整列された石段が有名であるが、裏玄関に当たるようなもうひとつの入り口を見つけたのだった。
なんというか、実に地味な石段の道だった印象がある。もしかしたら別の寺院の石段で、上のほうで紀三井寺と繋がっていただけかもしれない。
パンフレットやポスターで見たイメージと違うなあと思ったのも当然である。

一通り周った後、帰りにはもちろんその石段を降りてみた。
さすがに231の石段は壮観だった。上から和歌山を見晴らす景色もいい。
思っていたよりも急な段だったが、神倉神社の急坂石段を経験しているからそれほどすごいと思わなかったのは、紀三井寺のせいではない。
桜の季節には、実にいい風情が楽しめるのではないかと思った。

旅日記-紀伊半島・本州最南端に行きたい22<終わり>

2004年9月23日

登場する地:和歌山(和歌山県)


最終日の夜はバーミヤンで夜を明かしてみた。
バーミヤンというのは中華系のファミリーレストランだ。
和歌山にあった店は朝の4時半まで営業していたので、始発まで夜露をしのぐことができた。
旅日記を書きながら、気づくと眠っていて、目を覚まして書き出すとまた眠る、というくり返し。

毎日ちゃんと眠らないと、特に旅では実につらいものだ。

さてこの稿で紀伊半島をめぐる旅日記を終える。
海岸沿いを三重県側からずっと辿ってきた。
訪れる前は鬱蒼とした森の中をゆくようなイメージを持っていた。
しかし実際の紀伊半島は歴史があることと海辺ということもあって明るくひらけたようなところだった。

知らないところを訪れるというのは、自分の中の心もひとつひらけるような気がして、きついこともあるけどやっぱり楽しい。

和歌山での思い出は、ぶらぶら散策していたときに自転車に乗った高校生っぽい男性から道を尋ねられたことだ。
自転車に乗っているから地元の人だろうが、○○公園を探していたらしい。
僕はたまたまその公園を通っていたから場所を教えてあげた。
なんだか、面白かった。

さて、次回の旅は・・・。